『月陽炎~真章・銀恋歌~』-4
『えっと……鈴香さんでしたっけ?有馬さんはまだお帰りにならないのでしょうか?』
『嘉神さんが来られるまでには戻る予定だったのですが……』
『ああ、私のことは悠志郎とお呼びください、その方が慣れていますので』
『は、はい。悠志郎さん……で、よろしいですか?』
鈴香はぎこちなく悠志郎の名前を口にした。
『構いませんよ。それで……病院は遠いのですか?』
『いえ……多分混んでいるのだと思います。いつもならもう帰っている時間ですから』
身体を壊しているとは聞いていたが、病院通いが日常になるほど思わしくないらしい。
だからこそ悠志郎が呼ばれたわけなのだが……。
『えっと……』
『………………』
元々無駄話をしない方なのか、鈴香は必要以上のことは喋らなかった。
無言でいると間が持たず、なんだか落ち着かない気分であった。
『……そういえば、さっきの娘は?』
『妹の柚鈴と申します』
『なるほど、柚鈴さんと言うのですか』
『柚鈴になにか……?』
鈴香の表情が微妙に揺らぐ。
『不思議な娘だと思いましてね』
『髪の色が……ですか?』
『いえ、雰囲気とでも言いますか……』
先ほど出会った時のことを思い返しながら、悠志郎は自分でもその理由を考えてみた。
何処かはかなげで浮世離れしている感じがするからだろうか?
それに……何故か、あの娘には何処かで会ったことがあるような気がするのだ。
悠志郎がそんな気持ちを表現するための言葉を探していると、先に鈴香が少し哀しそうな表情を浮かべて口を開いた。
『あの娘は……対人恐怖症なんです。だから……だと思います』
『対人恐怖症……?』
そんな病があるということは知っていたが、実際に耳にするのは初めてのことだ。
『お恥ずかしい話ですが……』
『じゃあ、学校にも行っていないとか?』
『その通りです。ですが、勉学の方は私が教えておりますので、問題はないかと……』
鈴香の口調が硬いものへと変わった。
それ以上の追及はするな……と拒絶するかのようだ。
どうやら、あの柚鈴という少女のことはあまり触れられたくないらしい。
おそらくは対人恐怖症のことだけではなく、あの銀色の髪にも原因があるのだろう。
『左様ですか……』
悠志郎も無理やり聞き出す気などないので、話題を変えることにした。
『あの……有馬さんはひとりで病院へ?』
『いえ、葉桐(はぎり)さんが一緒に行っています』
『葉桐さんというのは?』
『……義理の母です』
『そう……ですか……』
なにやら複雑な家庭事情があるようだ。
これ以上、有馬家に関する質問をするのは躊躇われて、悠志郎は再び沈黙に耐えなくてはならなくなった。
ひそかに溜め息をついた時、遠くから正午のサイレンが聞こえてきた。
約束は十一時だったのだが……。
『父も葉桐さんも遅れているようで……重ね重ねの非礼、お許しください』
鈴香はそう言って深々と頭を下げた。
その拍子に美しく長い黒髪がさらりと揺れる。
よく見れば随分と器量のよい娘なのだが、どうも意識的に表情を表さないようにしているらしい。
『いやいや、かまいやしません』
悠志郎は鈴香の硬い表情を崩してみたくなって、少しおどけたように片手を振った。
『手入れされた庭を見ながら、ぼーっとしているのもまた一興ですからね』
『あの、父が帰って来るまでに、簡単に母屋や離れの方をご案内しておこうと思いますが……』
馬鹿っぽくならないようにはしたが、鈴香はなんの感銘も受けなかったらしい。
相変わらず無表情のまま、事務的な口調でそう言った。
……やれやれ失敗か。
鈴香の別の表情を見るのは、またの機会になりそうであった。