『月陽炎~真章・銀恋歌~』-36
37 『あっ……やな感じが……消えた……』
硬直していた柚鈴の身体が、呪縛からとかれたように弛緩(しかん)した。
『何度か見渡しましたが、人影は見えませんでしたよ』
『うん……でも……あれ……気のせいじゃないと思う……』
『さぁ、行きましょう。早く帰ってお風呂でも入れば、気持ちもきっとさっぱりします』
そう言って抱いていた柚鈴の身体を離した途端。
きぃぃぃぃん!と、耳鳴りがして、頭が割れんばかりの頭痛が悠志郎を襲った。
『ぐっ……なんだ……これ……っ……頭が……っ!』
『ゆ、悠志郎さんっ?』
とても柚鈴に答えるような余裕はなかった。
激しい頭痛と共に、頭に何かが流れ込んでくるような感じだ。
『悠志郎さんっ……!ああっ……わ、私……どうすればっ……!』
全身が痺れ始め、思わずがくりと膝をついた時、柚鈴は他に方法を知らないかのように、そっと後ろから悠志郎を抱きしめ、頭を優しく撫でた。
すると……頭痛は先程よりも幾分か和らいでいくようだ。
暗い森の中、悠志郎を抱いている柚鈴の胸元から、淡い琥珀にも似た光がほんのりと立ち上がっているように見える。
幻……だろうか?
『ああ……柚鈴……すまない……少しだけ楽になります』
『……どうしたんですか?』
『分かりません……頭が急に……すみません……でも……しばらくお願いします。……まだずきりずきりと痛むんです……』
柚鈴は頷くと再び悠志郎の頭を撫で始めた。
かなり和らいだとはいえ、痛みは一向に引く気配がない。
何かが頭の中から……いや、身体の奥底から肉体を切り裂いてはい上がって来るような……そんな堪えがたい感覚が続いているのだ。
……柚鈴の胸に抱かれながら、どれくらい時間が経っただろう。
『悠志郎さん……悠志郎さんっ……』
『柚鈴……大丈夫……生きてますよ……』
既に帰るはずの予定時刻は過ぎているはずだ。
おそらく皆が心配しているだろうが、まだとても歩けるような状態ではなかった。
まるで悪霊にでも取り憑かれてしまったかのようである。
悠志郎は動けないし、柚鈴ひとりで帰らせるのは危険だ。
定時になっても戻らなければ、鈴香が自警団に連絡して探しに来る可能性が高い。
幸いにして順路からは外れていないので、それを待った方がいいだろうか。
悠志郎がそう考えた時……。
『っ………?』
今まであれほど悠志郎を悩ませていた頭痛がすっと引いていく。
まだ頭の中に何か重いものが残っているような気もするが、先程よりは遥にましだ。
『悠志郎さんっ?』
『ふぅ……なんとか……治まって来たみたいですよ』
『本当に?よかった……』
柚鈴がそう言って、ほっと表情を緩めた瞬間。
しゃん!
すぐ近くに錫杖の音が響いた。
『だ、誰っ!』
暗闇の中からすっと人影が現れる。
悠志郎たちがいる場所から、ほんの僅かな距離だというのに、それまでは全く気配すら感じなかった。
まるで突然現れたかのような感じだ。
『何故に抵抗する、悠志郎よ……』
現れた人影が低い声で問い掛けてきた。
徐々にはっきりとしてくるその人物の姿には……見覚えがあった。
確か、柚鈴が初めて境内の外に出た時にすれ違った僧形の男。
『あ……あっ……や……やぁぁっ!!』
柚鈴はその男を見た途端、またさっきのように身体を震わせ始め、悠志郎の身体にしがみついてきた。
柚鈴が感じた視線というのは、やはりこの男のものだったのだろうか?
『あ、あなたは……何者ですか……?』
『我が名は真(しん)。……久しいな、柚鈴、悠志郎よ……』
僧形の男……真は、そう言って悠志郎たちを見つめる。
相変わらず笠で顔を隠しているためにはっきりと見ることはできないが、その様子からしてかなり老齢のようだ。
『……何故……我々の名を知っているのです?』
『子の名を知らぬ父はいない……そういうことだ』
悠志郎の質問に、真は意外なことを口にする。
……子?
『……笑えない冗談ですね。私に父はふたりもおりませんよ』
『お前が嘉神の子であることを……嘉神の血を引いていることを誰が保証するのだ?』
理由は分からないが、真は悠志郎たちのことをよく知っているようだ。
悠志郎は脅えたように震え続ける柚鈴の身体を抱きしめながら、真が何者なのかを探るように見つめた。