『月陽炎~真章・銀恋歌~』-28
29 街中に響き渡る昼のサイレンが聞こえてきた。
『そろそろお昼にしましょうか?』
鈴香の声に、悠志郎と柚鈴は書類を整理する手を止めた。
整理すべき書類の束は、まだ三分の一を消化した程度だ。
この分では一日中掛かるだろう。
しっかりと食事をしておかなければ途中でへたばりそうである。
社務所を出て母屋へ向かうと、台所からは白米の炊ける匂いが漂ってきた。
それまではさほどではなかったが、匂いに腹の方が反応を示し始めた。
『今日はなんでしょうねぇ……?』
悠志郎がのんびりと献立を想像していると、母屋の玄関の方からドタッ!と派手な音が聞こえてきた。
まるで何かが倒れたような音である。
『あ……ちょっと、失礼』
不意に鈴香が表情を引き締めると、悠志郎を押し退けて玄関の方へと駆け出して行く。
……なんだろう?
悠志郎は柚鈴と顔を見合わせ、鈴香の後を追うように玄関に向かった。
『う〜〜いたたた……』
『美月、大丈夫?』
廊下の角を曲がると、玄関に倒れている美月とそれを介抱する鈴香の姿が視界に入った。
単純に転んだというわけではなさそうだ。
柚鈴から聞いていた例の貧血なのだろう。
『美月っ』
柚鈴も慌てて側へ駆け寄って行く。
悠志郎も小走りにその後を追った。
『う〜〜っ、世界が……まわるぅ……』
いつもの美月と違ってかなり顔色が悪い。
廊下にくてんと伸びたまま、自分の力で立ち上がることもできないようだ。
『ほら、掴まって。部屋まで運んであげるから』
そう言って鈴香が抱え上げようとするが、脱力しているためにかなり重いらしい。
ここはやはり男の出番だろう。
『手伝いますよ、鈴香さん。もりもり食べてるようですから重たいでしょう』
『うーっ!蹴るっ!後で蹴るっ!』
悠志郎の言葉を聞いた美月が唸るように言う。
これだけの元気があれば、大事に至ることはないだろう。
『ふふふ……そうね。じゃあ、そちらの方持って頂けますか?』
『うーっ、姉様まで酷い〜』
ぶつぶつと文句を言う美月を部屋まで運ぶと、先に立った柚鈴がてきぱきと布団を敷き、障子を開いて部屋の空気を入れ換えた。
今に始まったことではないだけに、手慣れた感じである。
『具合はどう?』
身体が冷めないように寝かせた後、鈴香が美月の枕元でそう訊いた。
『う……ん。一応、食欲はあるから……あっ……!』
美月がそう答えようとした途端、ぐうっと腹の方が先に空腹を訴えた。
その様子があまりにも美月らしくて、悠志郎は思わずぷぷっと吹き出してしまった。
『うーっ!今すぐ蹴りたい殴りたい〜っ!!』
美月は顔を真っ赤にし、布団の中でジタバタと暴れた。
『ふふふ……はいはい。今ご飯持ってきてあげるから。柚鈴、行くわよ』
『うんっ。美月、ちょっと待っててね』
鈴香に促されて柚鈴が腰を上げると、
『ちょっとっ!このむかつく男も連れてってよぉ!』
美月は慌てて悠志郎を指さした。
『……悠志郎さん。ちょっと美月の相手をしていてください』
『御意』
『わ〜ん、姉様の意地悪〜っ!』
美月はすがるように鈴香に向けて手を伸ばしたが、彼女は柚鈴と笑い合いながら廊下へと出て行った。
ふたりがいなくなってしまうと、美月はキッと悠志郎を睨みつける。
『あんたのせいで、姉様も柚鈴もなんか性格変わってきちゃったわよっ!』
『はてさて……なんのことやら……』
『蹴るっ!蹴るっ!今ここで死なすっ!』
例え貧血で倒れようと、美月は美月のままだ。
性格までは変わらない。
『はははっ……まあ、とりあえず元気みたいでよかったですよ。美月に元気がないとからかい甲斐がありませんからね』
『ふんっ……治ったら覚悟してなさいよねっ』
『ご飯食べてゆっくり寝なさい。挑戦はいつでも受けますから、本当に早くよくなってください。何事も身体が資本と言います。健康は何事にも替え難い宝ですからね』
悠志郎はそう言いつつ、そっと美月の頭を撫でた。
『あ……』
美月は驚いたように身をすくませたが、悠志郎の手がゆっくりと頭の上を往復するにつれ、次第に表情を和らげていった。