『月陽炎~真章・銀恋歌~』-19
20 二日後……。
悠志郎は柚鈴と双葉と共に神社の外鳥居の前にいた。
『っ……ううっ……』
『柚鈴ちゃんっ!』
『思い出してください。柚鈴が、初めて私に向かって歩み始めた時のことを。あれと、同じことをすればいいんです』
外鳥居の外から呼びかける悠志郎と双葉の顔を見つめながら、柚鈴は緊張した表情を浮かべたまま石段の上で全身を強張らせている。
外の世界を見たいという柚鈴の、最初の試練だ。
一哉や葉桐、そして一番柚鈴の心配をしている鈴香の許可を得て、悠志郎は初めて彼女を神社の外へと連れ出そうとしているのである。
特に難色を示した鈴香には、万が一の場合は命に代えても柚鈴を守ると宣言までしているのだ。
なんとか柚鈴を外へ連れ出してやりたかった。
『柚鈴ちゃん、行こうっ!』
『柚鈴、おいで』
双葉とふたりで手を差し伸べる。
今まで出たことのない世界へ行こうとしているのだ。
恐怖は当然あるに違いない。
だが、その恐怖に縛られていたのでは、いつまで経っても変わることなどできないのだ。
今の柚鈴に必要なのは、恐怖を乗り越える勇気。
『え、ええ〜〜いっ!!』
悠志郎たちの声に励まされ、柚鈴は恐怖という鎖を断ち切って石段を蹴った。
ぴょんと小さな一歩を踏み出したに過ぎないが、その勢いに揺れた銀色の髪は日差しに輝き、まるで籠の中から解き放たれた鳥の翼の様にも見えた。
『あ……わ、私……私っ!』
『きゃぁっ!やったぁ、柚鈴ちゃん!』
双葉は柚鈴の両手を握って大喜びしている。
『おめでとう。柚鈴の最初の一歩ですよ』
『あ、あはっ……私……行けましたっ!』
『柚鈴は頑張って自分の力で、籠から出たんです』
『やったぁ……やったぁ……!』
柚鈴は感激に打ち震えるかの如く、石段の外の土を踏みしめた。
しばらくはまるで腰が抜けたようにその場から動こうとはしなかったが、徐々に慣れてきたのか、少しずつ辺りを歩きまわれるようになる。
『悠志郎さん、これからどうするんですか?』
そんな柚鈴を見て双葉が訊いてきた。
『そうですね……いきなり駅前というのは無理でしょうから、今日はこの辺でのんびりと散歩でもしますか』
『そうですね、いいお天気ですもの。きっと楽しいです』
『柚鈴、それでいいですか?』
悠志郎が確認するように振り返ると、柚鈴は既にてくてくと歩き始めていた。
黄金に染まる波穂を見ていたかと思えば、急に立ち止まり、駅まで続いている道をじっと見つめたりしている。
『わっ、柚鈴っ!そんなに急いで行かないで』
悠志郎は慌てて柚鈴の元へ駆け寄った。
外の世界をまったく知らない柚鈴は赤子と同じようなものである。
その点を、鈴香からくれぐれも気をつけるように言い渡されているのだ。
もし、監督不行届で迷子にでもさせてしまったら、鈴香に叩き切られることは間違いないだろう。だが、柚鈴はそんな事情など考えもしないように悠志郎の腕を取ると、
『悠志郎さんっ、あっち行きましょう!あっち!』
と、ひとりでぐいぐい進もうとする。
この小柄な身体のどこにそんな力があるのか、不思議なほどだ。
『わぁ〜、柚鈴ちゃんどうしちゃったんですかっ?』
『だって……今まで遠くからしか見えなかったものがすぐ近くにあるんだものっ』
双葉の質問に弾んだ声で答えると、柚鈴は近くにあった電柱を見つけて駆け寄っていく。
『へえ……電柱って、こんなに大きいんだ……』
『うわ、柚鈴!触ってはいけません!』
悠志郎が制止する間もなく、柚鈴は電柱の表面に触れて手を黒く染めてしまった。
『わぁ……なんか黒いのがっ!』
『遅かったか……電柱には木が腐らないように、タールと呼ばれるものが塗ってあるんです。だから、触るとそれがついてしまうんです』
『う……変な匂い……』
柚鈴は双葉からハンカチを借りてゴシゴシと手を拭ったが、タールは石鹸をつけて洗いでもしない限り、中々完全には落ちない。
『ふぅん……こんなのが塗ってあったんですね』
『だから、黒いんです』
『ふぅん……なるほど……。あっ!あれはなんだろう?』
興味深そうに指に残ったタールと電柱を交互に見比べていたが、やがてまた新しいものを見つけたのか、柚鈴は再び悠志郎たちの腕を掴むとぐいぐいと引っ張り出した。
まるで子供のようだ。
しかし……それも無理はない。
悠志郎たちは、実際に触って汚れがついてしまうこと、しかもそれが中々取れないものであることを子供の頃に経験している。
でも、柚鈴は遠く離れた境内から見下ろすことしかできなかったのだ。
ありふれたものでさえ、柚鈴には珍しいものに見えるのだろう。
こんなに生き生きとした柚鈴は初めて見る。
……やはり、外に連れ出して本当によかった。
悠志郎は双葉と顔を見合わせ、お互いに笑い合ってみせた。
だが……。