『月陽炎~真章・銀恋歌~』-14
15 『……しばらく休憩しましょうか、悠志郎さん』
『いいですね。私も集中力が切れていたところなので』
悠志郎が膝を崩すと、鈴香は笑みを浮かべながら社務所に備えてあるお茶をいれるために立ち上がった。
途端、その身体が泳ぐようにふらついた。
『鈴香さん……大丈夫ですか?』
『え、ええ……少し疲れたようです。ごめんなさい、心配をお掛けして』
考えてみれば悠志郎がやって来るまで、鈴香はずっとひとりで仕事をこなしていたのだ。
秋祭りを控え、その仕事量は膨大なものだったに違いない。
『いやはや……もう少し一哉さんも手伝ってくれればいいものを……』
身体を壊していると言っても、まったく起き上がれないわけではないのだ。
せめて、帳簿整理だけでも頼めなかったのだろうか?
悠志郎がそんな疑問を口にしようとすると、
『それは結構です。あの人の手は借りません』
鈴香はぴしゃりと言い放つ。
その厳しい口調に悠志郎は驚いてしまった。
食事の度に家族一同が顔を合わせるが、それほど不仲なようには見えなかった。
だからこそ、鈴香の態度が不思議でならない。
『あの……無礼を承知でお尋ねしますが、何故そこまで一哉さんを嫌うのですか?』
口にして気付いたが、鈴香の言葉には一哉に対する嫌悪感が含まれているのだ。
人柄が全て理解できるほど接したわけではなかったが、さほど性格の悪い人物とは思えなかったのだが……。
『父の……柚鈴に対する態度は……許すことができません』
悠志郎の問いに、鈴香はぽつりと呟くように答える。
『多分、あのふたりはこの数年、会話すら交わしてないはずです』
『え……どうしてですか?血の繋がった親子でしょうに』
だが、言われてみれば、確かにふたりが会話している場面を見た記憶がない。
鈴香や美月には笑顔で語りかけていたのに……。
『血は……繋がっていないんです。柚鈴と父は……』
鈴香は溜め息をつくと、淡々と語り始めた。
『あの子は父の血を引いておりません。葉桐さんの血も引いてはいません。今はもう死んでしまった私の実母と、見知らぬ男の間にできた……不義の子なんです』
『………………』
あまりのことに、悠志郎は返すべき言葉を失ってしまった。
『事情は……少し複雑です』
鈴香は少し辛そうな表情を浮かべたが、なお言葉を紡ぐ。
ことの起こりは、この有馬神社の当主であった一家が突然失踪したことに始まったらしい。
その宮司のいなくなった神社を遠縁の一哉が継ぐことになり、その際に後に鈴香や柚鈴の母となる女性……沙久耶(さくや)と結婚することになった。
それは互いに望んだ結婚ではなかったが、それでも鈴香が生まれた頃は平穏であったようだ。
だが、その平穏も束の間のことであった。
『結局……父の心は母にではなく葉桐さんに向いていたようです』
望まぬ結婚を押し付けられる以前、一哉は葉桐と恋仲だったらしい。
一度は親族の指示に従ったが、月日が流れるにつれて沙久耶から心が離れていったのだろう。
そして、不幸な婚姻を決定付ける出来事が起きた。
『多分……私が四つの時です。母が……見知らぬ男に乱暴されているところを見ました。その時は恐くて……母がいじめられているのだと思い、助けも呼べずにがたがたと震えているしかありませんでした』
その時、沙久耶が何をされていたのかを知ったのは、鈴香が成長し、それなりに物事を知った後のことだったという。
『それから十月(とつき)が過ぎて……母は柚鈴を生みました』
生まれたのは、銀色の髪をした赤子。
沙久耶は半狂乱になったと言うが、それも致し方ないことだろう。
名も知らぬ男に犯され、子を身篭り、産まざるを得なかった彼女の気持ちを考えると、神罰が下ったと思い込んだのも無理はない。
『母はまだ乳飲み子の柚鈴を残して、すぐに他界しました。今から考えれば心労が祟ったのでしょうね。父の情もとっくに尽きていた様ですから……』
残された柚鈴に親はなく、代わりに鈴香が育てたようなものだったのだろう。
母を亡くし……父の気持ちは他の女性に向いている状況では、鈴香にとっても柚鈴はたったひとり残された家族だったに違いない。
『みっともない話です。言わば門外不出の……有馬家の恥部でしょうね』
自嘲気味に笑うと、鈴香はふうっと息をつく。
ふと訪れた沈黙を破るように、社務所の時計が午後三時の鐘を鳴らした。
『……そろそろ仕事に戻りましょう。また気が向けば、お話するかもしれませんが』
『鈴香さん……』
話を打ち切ろうとする鈴香に、悠志郎は敢えてひとつだけ質問した。
『訊いておいてなんですが……何故私に話してくれたのですか?』
『……柚鈴が信頼した相手だから』
鈴香は僅かに首を傾げて笑う。
『人一倍人見知りする柚鈴が懐いた人ですもの。きっと信頼できる人ですよ』
『……私を買いかぶっていませんか?』
『ふふふ……それにね、私は疲れていたの。だから、重い口がつい、ふっと愚痴を漏らしてしまったのかも。あははっ……なんだか気が楽になっちゃったな……』
そう言って笑う鈴香は、年相応の可愛らしい女の子だった。
その表情を最後に鈴香はいつもの彼女に戻っていったが、今までよりもずっと優しげな表情に見えたのは、悠志郎の気のせいではなかっただろう。