きっかけ-9
「まぁ、人聞きが悪いわね。アタシがいつ、ひとのモンをとったって言うのよ」
「ははっ。確かにリョーコさんなら、自由奔放に他人の男を寝盗りそう」
「あらっ、それって褒め言葉?」
「リョーコさん、わたし、アイリッシュコーヒーが飲みたい!」
「んまぁ! めんどくさいもの頼まないでよ! コーヒーはドリップタイプのもので我慢しなさいよ! いちいち豆から挽いてらんないわっ。生クリームもホイップされてあるタイプので、ぶしゅーって出すだけのやつよっ」
「やったぁ! ありがとうっ、嬉しいーっ」
リョーコさんのこういうところが好き。文句を言いながらも、わたしたちの注文に絶対に応えてくれるんだもん。
この注文が聞こえたのか、後ろのテーブル席から俺も同じものをと声があがる。しかたないわねと言って、リョーコさんがカップをふたつ並べた。
このバーには、基本的にゲイの男の人たちが集まり、情報を交換したり出会いの場として利用したり、リョーコさんとおしゃべりをしながら飲むといったお客さんが多い。わたしみたいなヘテロ(異性愛者)の女の客は、誰かしらの紹介である場合がほとんどだった。
今も後ろのテーブル席では、男同士の恋の駆け引きが繰り広げられている。
「それにしても、真緒ちゃんに新しい彼氏ができてよかった。しかもすごく素敵な大人のひとなんだよね? 前の男、最低だったからなあ」
「緒方さんとあんなやつを比べたら、緒方さんに失礼だわ。ほんと、なんであんなやつのためにあんなに悩んでたのか不思議なくらいよ」
「そいつの連絡先を拒否して削除するまで、かなり時間がかかったもんね」
「わぁ言わないで〜。あの頃はわたし、ほんとうにおかしかったのよ。最初の浮気は魔がさしたんだろうなって思ってたけど、あいつはその後も浮気を繰り返してた。それを毎回許してたのは、あいつが好きだったからというより、付き合ってきたふたりの過去にしがみついていただけだった。聡に頬を平手打ちをされて気付いたけど、でも、そのときにちゃんと気付いて関係を清算したんだしね、あれもあれでいい経験だった──けど、あの頃の惨めな自分のことはできればあまり思い出したくないのーっ」
聡が軽やかに笑う。
あの頃もこのカウンターで、ドライフルーツをかじりながら何時間もお酒を飲んで話していた。様々なかたち、色、ラベルのボトルを眺めながらダーティーマザーかスコーピオンばかりを飲んでいた。
ダーティーマザーはアルコール度数が高いので、いつも舐めるように飲んでいた。こはく色に浸る氷を見ると、不思議とこころが落ち着いた。
懐かしい、と思った。あの頃の自分が妙に子どもっぽく思える。
「緒方さんはね、わたしの親に挨拶をしてからじゃないと泊まりはダメだって言うくらい真面目なひとなの。イケメンだからかな? 余裕をね、感じるのよ。モテるひとはやっぱ違うなぁーって思った」
「いいね。そういうところがだらしないひとって、案外多いもんね」
お待ち遠う様と言って、リョーコさんがアイリッシュコーヒーの入ったカップを置いた。
コーヒーの良い香りが立ち込める。
「あぁ、これこれっ。緒方さん、これを作ってくれたの。オシャレだし、超かっこよくない?」
「やるなぁ。なかなかさっとは作れないよね、こういうのって」
思いっきりのろけても、聡はいつもすべてを受け入れてくれる。
もちろん、聡が好きなひとの話をしているとき、わたしは聞き手にまわる。
男のくちから、男の魅力について聞くのはとても興味深いことだった。
「そのネイルも、彼と付き合いだしたから──かな?」
「えへへ。今日の昼間にサロンに行ってきたの。前から興味はあったんだけど、挑戦するタイミングをはかりかねていて。散々検索した挙句、結局一番近くのデパートの中のサロンに行くことにしたの」
「あら、いいじゃない。フレンチネイルってやつよね。さりげなく薬指だけドレッシーなレース模様が描かれているっていうのが憎らしいわ」
「可愛いでしょ。引っかかるもののないシンプルなデザインにしてもらったから、仕事にも差し障りないし」
カップを置いて、自分の両手をカウンターと水平に広げて見る。
クリアベースにピュアホワイトの斜めフレンチネイル。
シルバーの細めラインが入っていて、リョーコさんの指摘通り、薬指だけ手描きのレース模様と少量のホログラムが入っている。