ストーカー-2
そのシネコンの中にあるファミリーレストランはガラス張りのオープンな雰囲気だった。美紀は人目がある場所ならこの男が衝動的な行動に出ることはないだろう、と踏んだのだった。
白いテーブルにホールスタッフが氷と水の入ったグラスを二つ並べて置いて去った後、美紀の方から口を開いた。
「この前はお世話になりました。申し訳ありません、わたし貴男との関係を解消したいです」
「まだ一回しか愛し合ってないじゃないか。これから身体の相性も良くなっていくよ」
「ごめんなさい」
「僕は今夜はフリーだ。もう一度君を抱きたい。いいだろ?」
美紀はうつむいたまま小さな声で言った。「あたし、気になっている人がいるんです」
「気になっている人? なんだそれは。じゃあ私とのあの時間は遊びだったっていうのか?」
自分だって遊びだったくせに、と美紀は思った。
「本当にすみません。貴男と会った時はまだ迷いがあったんです。でも今は……」
「そいつも出会い系サイトで知り合ったオトコなのか?」
その通りだったが、美紀は嘘をついた。
「いいえ。前から知ってる人です。急に気になり始めて……」
「そうか」
桂木はふっとため息をつき、グラスに手を伸ばした。その時、ホールスタッフが注文していたコーヒーと紅茶を運んできた。
美紀は紅茶のカップを引き寄せながら言った。「ほんとにごめんなさい。貴男の気持ちを、結果的にもてあそぶことになって……」
桂木はコーヒーカップを手に取り、ゆっくりと傾けた。
「君の気持ちがそうなら、私が後追いすることはできないね」
美紀はほっと胸をなで下ろし、赤い薔薇の花がプリントされたカップを口に運んだ。
「わかった。今日は諦めよう」
美紀は顔を上げた。「(『今日は』? まだ諦めてないの? この人!)」
桂木はテーブルに身を乗り出すようにして口角を上げた。「私は君がそいつにふられることを神に祈るとしよう」
美紀は言葉をなくして思わず身を引いた。
「そしたらまた私は君を誘うことができるからね」
「やめてください!」美紀は大声を出していた。背後のテーブルにいたサラリーマン風の男性が、読んでいた雑誌からちらりと目を上げた。
桂木は椅子に座り直して白いカップを手に取った。
「冗談だよ。もう君とは二度と会わない」そして寂しげに笑った。
半分残した紅茶のカップを少し奥に押しやって、美紀はバッグを肩に掛けた。
「それじゃ、あたし、帰ります」
桂木はテーブルに置かれていた注文票に手を伸ばした。「私が払うよ」
「いえ」美紀は言って、その注文票の上に千円札を載せた。「ここはあたしに持たせて下さい」
桂木はふっと片頬で笑った。「手切れ金ってとこか。安いもんだな」
そんな嫌味を背に受けて美紀は席を立ち、レジの奥にあるトイレに向かった。このオトコの顔を、もう二度と見たくなかったからだった。
トイレの鏡の前で美紀は自分の顔をじっと見つめた。「自業自得……だけど……」
美紀がそこを出て、レジのあるホールへの角を曲がろうとした時、いきなり桂木が現れ、彼女の身体を壁に押しつけた。
美紀はきゃっという叫び声を上げた。そしてその脂ぎった黒眼鏡オトコの顔を見上げた。
「別れる前に、君との思い出にしたい。キスをしてくれないか?」
「いやっ! やめてっ!」
両肩にかかる桂木の手の圧力が増した。そしてオトコの顔が美紀の顔に近づいた。
その時。
「そこで何やってる!」
鋭い声がした。桂木はとっさに美紀から身体を離した。美紀は思わずその場にしゃがみ込んだ。
「嫌がってんじゃねーか、通報すっぞ!」
壁際にうずくまった美紀と桂木の間に割って入ったのは久宝洋輔だった。
「く、久宝くん……」美紀はその仁王立ちになった後輩の背中を見上げた。
「美紀先輩、大丈夫っすか?」洋輔は振り向いて言った。そして目の前の黒縁眼鏡の中年オトコに向き直って、鋭い目で睨み付けた。「消えろ! 無抵抗の女に乱暴すんじゃねえよ!」
桂木は噛みしめた唇をぶるぶると震わせていたが、すぐにそのまま慌てたようにそこを離れた。