ブックエンドと君の名前-9
中澤はひとつひとつの断片的な彼女の過去を聞き、相槌を入れたり、ときには感想を言ったりもした。しかし彼は、彼女の語りの総体には何かが欠けていることに気が付いた。それは具体的な欠落ではなく、あるいは彼女の声があまりにか細く頼りないことに起因する単なる欠落感に『似た』ものだったのかもしれない。もちろん、そうじゃないかもしれない。それは分からない。なんにせよ中澤にはその欠落の正体を正確に見定めることができなかったし、それが彼をなんとなく落ち着かない気持ちにさせた。
「自分が何をしたいのか、未だによく分からないの」
と女の子は言った。出鱈目なところまでビデオを巻き戻して、そこから再生したような唐突な喋りだし方だった。
「この最後のときに、何かしなければならないことがあるはずなのに」
「僕にもそういう感じはあるよ。まだやり残したことがあるんじゃないかってね。何せ仕事ばかりで孤独な人生を歩んできたから、やり残したことなんて数え切れないくらいある」
「あなたは、何をやってる人なの?」
「絵本作家」、と中澤は答えた。彼は絵本作家だった。「絵の具とワープロを使って、子供が読むための話を書いてる。隕石も降ってこないし、津波も登場しないごく普通の話」
「有名なの?」と女の子は訊いた。
「有名。一日かけて渋谷を歩いたって誰にも気づかれないくらい有名」
女の子は開いたハードカヴァーの本で口を隠して楽しそうに笑った。
「時間ぎりぎりで有名人に会っちゃった」
「君はすごくラッキーだったよ」、と中澤は真顔で言った。
「それだけ有名だと、変装でもしないと外も歩けないんじゃない?」
「名前に姿はないんだ。僕の名前を知っている人のほとんどは僕の姿を知らない」
と中澤は説明した。名前に姿はないのだ。名前というのはときにそれが表す存在を無視してどこまでも膨張するし、知らない内に縮んだりする。中澤は自分の名前が膨張したり縮小したりという状況を何度も経験していた。それはたいてい無責任な第三者の口によって決定されるのだ。
「私はあなたの姿を知っているけど、あなたの名前を知らないわ」
女の子は頬杖をついて、中澤の顔を覗き込みながら言った。真っ直ぐに目が合わさると、中澤は久しぶりに顔が赤くなった。
「そういえばそうだね」、中澤は感心して頷いた。「まったくの逆だ」
「そういうのってどう思う?」
と女の子は訊いた。それが彼女の口癖であるらしかった。そういうのって、どう思う? 質問の仕方としてはあまり優れていない。漠然としすぎているし、曖昧すぎる。
「どうって?」、と中澤は訊いた。
「喋ってる相手の名前を知らないことについて」
中澤はそのことについて考えてみた。
「僕だって君の名前を知らない。でも君の名前をどうにかしてでも聞き出そうとは思わないよ。それでも僕は少しずつ君のことを知り始めているし、もっと知ることも可能だと思う。たとえ僕が君の名前を知らなくてもね。名前というのは便宜上の概念に過ぎないんだ」
中澤の説明に、女の子はあまり納得がいかないようだった。消極的に頷き、曖昧に首を振った。
「でも」
と女の子は言い、目だけをきょろきょろと小刻みに震わせ、少しのあいだ黙り込んだ。眼前にある空間から喋るべき言葉を探し求めているというふうな様子だった。中澤は静かに続きを待った。