ブックエンドと君の名前-8
中澤が目を覚ましたとき、女の子の姿はなかった。掛け時計はもうじき十時になることを見るものに知らせていた。太陽光は窓の外の風景を強く照らし、その光のいくらかが中澤の部屋にも入り込んでいた。部屋の中は薄暗いが、決して絶望的な暗さではない。
置手紙のようなものがあるかもしれないと、中澤は家中を探し回ったが、どういうわけか彼の部屋からはレシートの一枚も出てこなかった。紙なんていくらでもあったような気がしたものだが、いざ探す段になるとそれらは一斉に姿を隠した。中澤はグラスに残ったウィスキーを台所に捨て、歯を磨くために水道のハンドルをひねった。しかし蛇口からは何も出てこなかった。電気と水は別々の機構のものとして考えていたものだったが、地下から水を引き揚げるには電気が要る。当たり前だ。中澤はうんざりした気持ちで新しい服に着替えた。
中澤は外に出て、近くのコンビニエンス・ストアへ行った。ドアは開きっぱなしで、店内は近いうちに要領の悪い強盗が入ったみたいに商品が散乱していた。中澤はまだ賞味期限が過ぎていないことを確認してからサンドウィッチをその場で食べ、ミネラルウォーターを飲んだ。ミネラルウォーターのボトルは2本だけ余っていたのでそれを手にし、歯磨き粉と歯ブラシと紙コップをポケットに突っ込んでトイレに入り、歯を磨いた。残った水で顔を洗い、頭から少しかぶった。タオルで顔面と髪を拭き、メモ帳とボールペン、カッターナイフをポケットに入れた。ビニール製の手提げの中に適当にパンを放り、果物のジュースを何本か入れた。コンビニエンス・ストアには何でもあるのだ、と中澤は思った。そして店を出て、図書館へ向かった。
風は冷たいが、日光が強くちょうど良い具合だった。寒く感じる直前には日光が身体を暖め、汗をかきかけた頃に風がそれを乾かしてくれた。街道を抜け、ゴーストタウンの一画のような商店街を過ぎ、小さな橋を渡り、図書館の寂れた後姿が見えるころには髪が乾き、水をかぶったときに濡れた服もだいたい乾いていた。
案の定、読書室には女の子がいた。昨日と同じ席に座り、昨日とは違う本を広げて読んでいた。中澤の姿を見つけると女の子は微笑み、こんにちは、と小さな声で言った。
「起こしてくれたら良かったのに」
中澤は手提げに詰め込んだパンを彼女のテーブルの上にひとつずつ置き、そう言った。
「起こしたのよ。でも全然起きないから」
女の子は栗の入った菓子パンの包装紙をやぶり、かじった。中澤は蜜柑のジュースを飲んだ。
「全然気が付かなかった」、と中澤は言った。
「きっと疲れていたのよ」、女の子は目を細めて微笑む。中澤はその微笑を一目で気に入った。「でもここにいるって分かったのね」
「本」、と中澤は呟いた。
「本」
と女の子も言った。それは秘密の小部屋からこぼれてくる素敵な合言葉みたいだった。
中澤は芥川龍之介の短編を持って、女の子の隣に腰をかけた。女の子も今度はさすがにそこに座った理由を訊ねなかった。ふたりは隣り合って文字を追い、それぞれが別々の物語を読み進め、ときどき思い出したように何か喋った。遠い過去のこと、さして遠くない過去のこと。今のこと、すでに崩壊の約束されている未来のこと。でも喋るのはだいたい女の子のほうで、聞くのはだいたい中澤のほうだった。
女の子は本を読みながら、ぽつぽつと自分のことを語った。自分はもうすぐ二十歳になるのだ、父親は幼いころに死に、母親はろくでもない男を遠慮なく家に連れ込むようになったのだ、処女を失ったのは高校二年の頃だ、相手は年上の学生だった、進学はしたが今年の夏に大学を中退し、アルバイトをしながらぼんやりと暮らしていたのだ、ココアは好きだがコーヒーは思い切り甘くしないと飲めないのだ。そんなこと。