ブックエンドと君の名前-4
中澤は日本人作家の書架から森?外を見つけ、二冊選び、テーブルに持って行った。太陽光の通過を黙認している無防備な窓を背にして席に座り、地上に差し込んだつかのまの暖かさを背に受け止めながら、一項ずつ、ゆっくりと読み進めた。中澤は森?外の短編が大好きだった。
「どうしてそこに座ったの?」
と女の子は頬杖をついたまま中澤に言った。ふたりはテーブル三つぶん離れて座っていたが、女の子のほうがちょうど真ん中のテーブルを使っているため、それ以上離れた席につくことは中澤には不可能だった。中澤は念のためあたりを見渡したが、ここに座ってはまずいと示唆するような事物は何ひとつ存在しなかった。
「どうしてって?」
と中澤は訊いた。
「たくさんの席がある中で、どうしてそこを選ばなければならなかったの」
たくさんというほど席はない、と中澤は思った。どう要領良く押し込んだって二十人も座れないはずだ。女の子の声は小さく、目の細かい紙やすりみたいにしゃがれ、どんな小さな隙間にも入り込めそうなほど細かった。読書室は滅びた海底の都のように静かなのだが、それでも中澤は女の子の言葉を聞き取るのに苦労したほどだった。
「ここだとまずかったかな?」
中澤は首だけ女の子のほうへ向けて言った。
「ううん、そういうんじゃないけど」
女の子は気だるげに呟いたが、唐突に会話を放棄し、抱き寄せた腕を下敷きにして眠るように顔を突っ伏してしまった。妙に明瞭な寝言の途中のように見えなくもなかった。中澤は本か女の子かどちらに意識を集中しようかと決めあぐねたが、女の子がそれ以上何も言わなかったので、結局は本を選択することにした。中澤の心はただちに図書館を離れ、かつてのベルリンへ降り立ち、ウンテル・デン・リンデンの街並みをその内なる目に映すことができた。それは世界の崩壊の迫る今日へはたどり着かぬ別の時間軸、あるいは別の世界の風景であるように中澤には思えた。実際には三日経たのちに一片たりとも跡形の残る土地はこの地球上にはあるまいが、それでも彼の心の中に描き出された風景は、物語は、不朽の響きを彼の心に刻み付けたものだった。
時間は残りの時間をひとかけら、またひとかけらずつ飲み込み、その巨大な舌で太陽を西の山奥へ強引に沈めようとしていた。外は夕焼けの濃いだいだい色におおむね染まり尽くし、木々の足元からは、端を爪で引っかいてはがせそうなほど明確な形をした影が長く伸びていた。空気は澄み、冷たかった。しかし窓が東側にあるために、読書室の中はぶ厚い影を落とされたように暗かった。本を読み続けることが難しくなると、中澤は諦めて何冊目かの本を書架に戻した。女の子はずっと顔を突っ伏したままだった。
「僕は帰るけど」
と中澤は木戸を半分開けたまま、顔を伏せた女の子に向かって言った。
「君も暗くなる前には帰りなよ。今はすごく治安が悪いから」
「うん」
と女の子は簡潔に答えた。てっきり眠り込んでいるかと思っていたので、中澤にとって返事が返ってきたことは意外といえば意外なことだった。目が覚めているのなら、あんな体勢でいる必要なんてない。あれは殺人的につまらない授業を受け流すとき、便宜的に眠るためにある姿勢なのだ。しかしその姿勢をどこで用いるかというのはもちろん彼女の勝手であり、他人のとっている姿勢に利便性なり必要性なりを追求する筋合いなどは中澤には到底ありえなかったので、そのまま黙って帰ることに決心をつけた。後ろ髪をひかれる思いもなくはなかったが、どちらにせよ彼の短髪には引っ張れるほどの後ろ髪もなかった。