ブックエンドと君の名前-14
さて、田辺君が戻ってくるまでのあいだ、彼が変な酒を持ってこないことを祈りつつこれを流そうか。『ブック・エンド』。なんだか今日はサイモン&ガーファンクルの特集でも組んでいるみたいだ。次は『明日に架ける橋』でも流そうか。それにしてもこれは冬になってから聴きたかったね。冬の名曲だもの。でも冬まで待つ時間なんてないから、今流しちゃうことにする。いいね? さっきも言ったけど、クレームは受け付けないよ。
……。
図書館は沈みかけた陽の光をその半身に受け止め、風景は一枚のロココ調絵画のように曲線的で物悲しく、不均衡であった。北で産まれた風がはるか遠くからやって来て、長い距離を歩いたせいで汗にまみれた中澤の体を冷やした。初めのうちそれは心地よく、しかししばらく図書館の佇まいをぼうと眺めているうちに、次第に中澤の体は寒さに震えだした。もう間もなく秋が終わり、代わりに冬が世界を取り込もうとしている。冬は何も知らないのだ。世界を冷やすことしか考えていない。
中澤は開きっぱなしの自動ドアをくぐり、暗い通路を進んだ。通路は外よりもずっと寒々しく感じられた。歩くたびに凍りつくような硬い足音が響き、コンクリートの壁面を跳ね返って膨張し、奇妙な消え方をした。中澤はそれが自分の足音だということに今ひとつ自信が持てなかった。もしかしたら僕の足音は一度コンクリートに吸い込まれていて、僕が耳にしているのはコンクリート自体から放たれたコンクリートの喘ぎ声なのかもしれない。だとしたら僕の足音はどこへ行ったのだ? 足音は僕の靴底を離れ、コンクリートの壁に飲まれ、そしてどこへ行こうとしているのだ?
読書室には誰もいなかった。女の子がいつも座っていた席にはぽっかりと穴があいたような空虚な残像が残っていた。中澤はかつてそこに座っていた少女のことを考え、少女の着ていた枯葉色の上着のことを考えた。細い黒髪のことを考え、暗闇に消え入りそうな細い声のことを考えた。しかし考えれば考えるほど、中澤は女の子の姿を正確に思い出せなくなった。気が付けば女の子の声の響き方さえ思い浮かべられなくなっていた。彼の頭の中にかろうじて残っていたのは、女の子が確かに存在していたはずだという確信、あるいは事実だけだった。記憶はたった一日のあいだに容易く薄らいでしまった。
中澤は書架から適当に本を選び、それを持って女の子の席に座った。本を開き、字を追おうとしたが、小さな活字を追いかけるには読書室の中はいくぶん暗すぎた。思い切り顔を近づけてなんとか読むことはできたが、これからもっと暗くなることを考えると馬鹿馬鹿しくなってやめた。中澤は諦めて、そのまま顔を突っ伏して眠った。もう何をする気力も彼には残されていなかった。そして眠りはすぐにやってきた。
……。
過ぎ去った日々 それは素晴らしい日々だった
それは無邪気な日々 自信に満ち溢れた日々
もうずっと昔のこと そうでしょう? ここに写真がある
思い出は大切にとっておくことです
それはあなたが失ったすべてのもの
夢の中で『ブック・エンド』の歌が流れた。中澤はそれを頭の中で日本語に置き換え、深い喪失感に満ちたその歌に合わせて鼻歌っぽく口ずさんだ。ポール・サイモンとアート・ガーファンクルの声が巧妙に重なり合い、その物悲しいメロディーを歌いあげていた。それは遠くから聞こえてくる歌であるように中澤には思えた。ぶ厚いフィルターを通して聞こえてくるような、くぐもった響きがあった。音は擦り減ったレコードのようにかすれ、ときどき素っ頓狂なハウリングに飲み込まれ、また浮き上がった。僕がこの歌を最後に聴いたのはいつのことだっただろう、と中澤は思った。きっと僕はどこかで、擦り減ったレコードを聴いていたのだ。それを今頃になって思い出して、夢に見ているのだ。でもどうして今になって時代遅れのフォークソングなんか思い出すのだろう。ひどい音質までくっきりと再現することができるのだろう。