ブックエンドと君の名前-13
中澤は時間の感覚を失ったまま隣町の駅にたどり着いた。歩行という単調な作業に没頭したせいで、彼は自分の体内時計にあまり確信が持てなくなっていた。一時頃かもしれないし、三時頃かもしれない。それは分からない。時間を確認したくて駅舎に立ち寄ったが、駅の時計はすべて四時過ぎを指したまま死んでいた。電気の供給がストップした一昨日の夕方、同時に駅に流れる時間も塞き止められてしまったようだった。ふたつのレールしか通っていない小さな駅には動くものがひとつもなかった。切符売り場のわきで薄汚れたコートを着た老人が横になっていたが、重い扉の軋む音のようないびきをかいて身じろぎひとつなく深く眠り込んでいた。
身を寄せる家族もなく、頭を載せる枕もなく、老人は最後の時を、無機質な公共施設に敷かれた硬いタイルの上で迎えようとしているのだ。中澤は老人の丸まった背中を見て不憫に思った。もっと広々とした場所がある。もっと寝心地の良い場所がある。中澤は老人に教えてあげたかった。乾いた枯葉の心地よい音を。秋の終わりに空からそそがれる暖かな太陽光のことを。でも、なんにせよ、老人は自分の力でその場所を選んだのだ。それは尊重すべきささやかな選択であるはずだった。我々に死に方を選ぶことはできないが、少なくとも死に場所を選ぶことはできる。他人の選んだ場所にけちをつけることなんて誰にできるだろう。中澤にとっては寒々しくて寂しい場所であっても、老人にしか見ることのできない思い出や、人生をかけて見出した意味がこの場所にはあるのかもしれないのだ。中澤は自分の思い出について考えた。自分の歩んできた人生について思いを巡らせた。出会った人間の顔を順不同に思い浮かべた。
「本」
と、中澤は呟いた。彼の心に浮かんだのは、擬音語のような合言葉だった。
……。
僕が今後悔しているのは、苦労してこんな馬鹿でかい発電機は持ってきたはいいが、どうして酒の一本も持ってこなかったんだろうってことだね。不思議と誰も思いつかなかったんだよ。最後まで頭は仕事、仕事のことだけ。酒のことなんて全然考えてなかった。なんて真面目なんだろうね、僕らは。……待ってよ、笑いどころじゃないよ、ここは。
もうそろそろ陽が沈む頃かな。今日は今朝からずっと晴れてるから、まず間違いなく焼けるような夕日になるだろうね。みんな外出の際はサングラスを持って出かけましょうっと、大げさかな。ところで僕は、この夕日ってやつがあまり好きじゃない。まぁ色々と嫌な思い出があるんだ。夕日を見るたんびにそれを思い出すはめになるし、そのたんびに哀しい気持ちになる。でももちろんね、なんというか、視覚的に綺麗だなというのは分かるんだよ。一般論としてこれは素晴らしい眺めなのだなって、そう解釈することはできる。でも思い出っていうのは不思議なもので、何日何ヶ月何年経っても、ちょっとしたきっかけでふっと浮かび上がってくるわけだ。きっかけってつまり、景色とか、匂いとか、味とかのことね。単に僕の場合はそれが夕日なのであって、昔フラれた女の子の顔とか、受験に失敗した日の帰り道とか、夕日を見るとそういう記憶がふつふつと浮かんでくるわけ。そんなわけで僕は酒が欲しくても、今は外に出たくない。酒が欲しくても、夕日なんか見たくない。ねぇ、僕の言ってること分かる?
(遠くでドアの開く音。『ははは』とスタッフの笑い声)
ははは。面白いね。今ね、田辺君が慌てて酒を買いに出かけたよ。あ、じゃあ僕行ってきます! って言ってね。ああいう素直なキャラ、好き。気は利かないんだけど、頼まれたことは喜んでやっちゃうタイプ。気のいい奴だね。最後の日だっていうのに、率先してお使いに行ける子なんてそんなにいないよ。それともひょっとしてあいつ、ニュース見てないんじゃないの?
(『ははは』とスタッフの笑い声。手の平を叩く音)