〜 社会・倫理 〜-1
〜 19号の社会・倫理 〜
希哲学から宗教まで、旧世紀にはヒトの生きる様々な指針が存在した。 多様性といえば聞こえは好いが、思想の違いは対立を生み、それぞれが自身の説に過度に固執する。 結果として妥協がなくなり、罵詈雑言を経て闘争に至る。 どの指針にも他者を圧倒する明確な基準はなかったため、ヒトは漠然と『倫理』という言葉で自分達の生き方を指導するより他はなかった。 が、現在は違う。 『優秀か否か』という数値化された基準が存在するため、個々の思考に配慮する必要はない。
『倫理』という学問は変容した。 過去に価値をもつとされた指針は穴だらけだ。 過去が内包する欠陥を学んで反面教師とし、現在の基準を尊重する姿勢を涵養することが、現代倫理の本質といえよう。
……。
万物の始源を問うことから始まった知の探究は、例えばタレスのように『水』に求めたり、アナメシスのように『大気』に求めたり、デモクリトスのように『アトム』に求めた。 これらの概念は科学的根拠をもたなかったが、思索することから『明朗闊達な生活が健康をもたらす』というような単純な指針を生み、時代に寄与した。
旧世紀中盤に至り、万物の始源は粒子ということになった。 粒子による運動が世界を築いている。 ゆえに、世界は一方通行で、未来は既に決定している。 現存するすべての粒子を正確に観測できれば、世界がどう進み、何が起きるか正確に予想できる。 実際に測定は不可能なため、未来を予測することはできない。 けれど、未来が決定しているとは、どんなに足掻いてみても行きつく先に変化はない――という思想だ。 始源を問いながら未来を断定する学問は、世界に虚無と退廃をもたらした。
翻って現在を顧みれば、万物の始源に対する答えは『優秀』だ。 優秀な人物が世界を造り、そうでない私達を導いてくれる。 万物の始源が世界の未来を決定する要素になる以上、始源は『優秀さそのもの』以外にありえない。 逆説的にいえば、『始源』が備えている性質こそ、『優秀さ』の科学的性質になる。
倫理の授業の1コマを写してみよう。
「22番さん。 『排便しか能のない貴方』にとって、万物の始源とは何ですか。 理由も含め、簡潔に答えなさい」
「はい。 私にとってはケツマンコです。 私はウンチ製造機なので、くっさくて緩いウンチをお披露目するオケツの穴がなければ、存在する意義もなくなるためです」
『排便しか能のない』と私が宣告した以上、彼女は実際がどうであれ、『排便しか能のない』存在にならねばならない。 そこで『ウンチ製造機』とアドリブで自称した点が心憎い。
「では、存在意義をこの場で示しなさい」
「……はい。 私は毎日毎日一定量の茶色くて鼻につく匂いをまき散らすウンチ製造機です。 本日の臭くてみじめなウンチをご覧ください」
ムリッ、ミチッ……ムリムリムリ……ポトリ。
直立姿勢から僅かに腰をおとし、椅子に細い戸愚呂を落とす。 自分で自分を『ウンチ製造機』と言ったのだから、これくらいは出来て当然だ。
「よろしい。 お坐りなさい」
「はい」
ぬちゃり。
躊躇わずに下ろしたお尻から、茶色い汚物がはみだしていた。 戸愚呂の上に腰を下ろしたのだから当然だ。 教室中に一際香ばしい匂いが流れる。 口で掃除させてもいいが、恥ずかしい香りを自認させるために、このまま放置してあげよう。