〜 社会・政経 〜-2
「すべて国民は法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分または門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」(20世紀・日本国憲法14条)
『社会通念上の優秀を認められない存在は、人種、信条、性別、社会的身分に関わらず、等しく無価値である』(統一憲法14条)
過去に国際連合と呼ばれた集団は、西暦1979年、『女子差別撤廃条約』を締結した。 現政府の原型となった日本では、1985年に『男女雇用機会均等法』が定められた。 さらに『セクシャルハラスメント防止配慮』が義務づけられ、1999年に『男女共同参画社会基本法』で牝の社会進出が促された。 いいかえれば、法律で変更をしてはじめて、牝は殿方と互すことが出来た。
現在は、少なくとも性別による差別は存在しない。 あくまで『優秀』を物差しとした『区別』が存在するだけだ。 牝が殿方に服従する理由は、牝に優秀な存在が皆無というだけが理由であって、牝だから、というわけではない。 仮に優秀な牝がいれば、社会を統治する側に回ることは可能だろうし、優秀でない殿方は服従する側に回るだろう。
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(20世紀・日本国憲法25条)
『社会通念上の優秀を認められた人物は、全存在に対し、最低限度の生活を提供する。 最低限度の定義については、生命維持を基本とする』(統一憲法25条)
私達の平均寿命(自然死のみを数えるものとする)は、殿方、牝をとわず40代前半だ。 過去世紀に牝の平均寿命が90才、殿方が80才を超えたことを考えれば、極端に短くなったといえるだろう。 体力が劣性な遺伝子を淘汰する目的で、青年以降は医療の恩恵とは無縁になる。 つまり、病弱な遺伝子は子孫を残さず、地上から消えるに任せるわけだ。 学園でも同様で、風邪をひこうが骨を折ろうが、特段の医療措置・予後配慮は存在しない。 とはいえ医療技術が過去より劣っているわけでは決してない。 その証拠といえるだろうか確証はないが、牝であっても幼年学校卒業までは手厚い医療を受けられるため、若年死亡率は性別を問わず0.0001%をきっており、これは旧世紀平均の1000倍を上回る。
「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、等しく教育を受ける権利を有する。 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。 義務教育は、これを無償とする」(20世紀・日本国憲法26条)
『全存在は等しく幼年学校において義務教育を受け、優秀さを証明する機会を得る。 社会通念上の優秀を認められた人物は、全存在に無償で義務教育を提供する』(統一憲法26条)
殿方も牝も、幼年学校の卒業試験までは対等に扱われる。 卒業試験の成績をもって進路が分かれ、最も優秀な成績を修めた生徒が師範学校へ、次点の生徒若干名が各地の『合宿』を経て『学園』へと駒をすすめる。 残りの生徒は義務教育の終了をもって、各種『専門学校』や『養成所』、或は『社会人』として働くことになる。
今思えば、私が通っていた幼年学校にも殿方の生徒が1人だけいた。 名前を挙げるのはおこがましいので、仮に『A君』としよう。 幼年学校では、確かに私たちと『A君』の扱いに、特段の差は見られなかった。 しかし、体育、芸術といった副教科も、主要教科においても『A君』の能力は抜群だった。 幼年学校の卒業年度になると、私たちが取り組む数学と『A君』がもっている冊子の数学は、全く別物になっていた。 卒業試験では『A君』だけが全教科満点をとり、次点の私でも100点以上水をあけられたことを覚えている。 なので憲法が謳っている『優秀さ』とは、殿方の専権事項とはいえない。 私達だって全教科満点を取ることができれば、A君同様の待遇が待っていただろう。 ただ、到底私達には――少なくとも私には不可能だっただけの話だ。
全体を通じて『優秀』なことに価値を見出し、その他に価値を認めず、多様性を排除する姿勢が一貫した条文ばかり。 103条からなる統一憲法の条文を全て挙げることは割愛するが、どれ1つとして旧憲法と同じ条文は存在しない。
現在の統一憲法は、民主的に選ばれた代表が統治する世界――多数決の原理と議会民主制が調和した世界――の末期に採択された。 採択の背景に戦乱と飢餓があったとはいえ、あくまで当時の政治手続きに則って進められた。 その理念が著しく旧憲法と相違していたとしても、それを含めて、人類が下した決定といえる。 私達優秀でない存在に、今更過去の決定を云々することはそぐうまい。