アールネの少年 4-8
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山林地帯をほぼ真西に三日歩いた。
手元に地図はないが、エイの感覚では北ナブフル西の国境線にかなり近づいている。
ロンダーン軍本隊が通る予定だという北面道路からはかけ離れており、シェシウグル王子に合流する気はないようだった。
三日目の夜は晴天だった。
野宿をするのに屋根となる場所を探す必要もなく、木々の合間の空間に火を焚いてくつろぐことができた。
夜も更けたころ、エイはふと目を覚ました。
木にもたれた姿勢のままだ。習慣で剣をさぐるも丸腰であることを再確認しただけだった。そのままぐるりと周辺に目を配る。
燃えつきた焚き火の向こう側にはシェシウグル王子が丸くなって眠っていた。
もともとエイは眠りが浅い。絶えず虫や小動物の気配がつきまとう夜の森は、特に彼の神経を過敏にした。
それでも、疲れはさほど感じていなかった。戦士として育った彼は、わずかな時間であっても休めるときに身体を休息させる術は心得ている。
目の届く範囲に、もうひとりの姿がない事実に、エイは無意識に体を緊張させた。
だがすぐに思いついて空を見上げる。鳥の性なのか、彼は地の上よりも高所にいるのを好むようだった。
はたしてすぐそばの樹上に、エイはその姿を見つけた。
枝に腰かけ、幹にもたれている。
ごくくつろいだ体勢のまま身じろぎもしないので眠っているのかとも思ったが、月明かりを反射して一瞬だけ光ったのが、見開かれた眼球だとエイは気付いた。少年はぼんやりと空を見つめていた。
「アハト」
シェシウグル王子の眠りを妨げないよう、エイはひそめた声をかけた。
アハトはゆっくりと下に目を向けた。
「……妙な人間だな」
「妙?」
「気配がまるでない」
意味がわからず首をかしげるエイに説明するでもなく、ひとりごとのように彼は呟いた。
「王子の気配がうるさいせいかな……」
この三日、アハトは頻繁に姿を消してはどこからか現れてシェシウグル王子に何事かを報告していた。
いなくなる時間帯はまちまちだが、そういえば、夜には決まって戻ってきて不寝番を務めている。
いかに神経の太い王子相手といえども、夜の森にひそむ危険を無視はできないということなのだろう。
だから、エイは彼が眠る姿を一度も目にしていない。
「眠らないで大丈夫?」
「三、四日は眠らなくても問題ない。……鳥態で力を使い過ぎないかぎりは、だが」
半日寝込んでいたことを思い出してか、彼は後半を小声で付け加えた。
「食事は? 全然食べていないね」
エイはシェシウグル王子の言葉を思い出しながらも、好奇心に負けて恐るおそる訊ねた。
アハトは簡単に応じた。
「人の食事は口に合わない」
これは好き嫌いの問題のようだ。
「腹が減ったら食えるものを食っている。妙なことを気にするんだな、あなたは」
「妙、かな。あの、セリス王子の焼き菓子は? ああいうのは食べられるの?」
「……もうほとんど食べてしまった」
アハトはなぜか顔をしかめた。
「王子といい、なんなんだ。食べたいのなら先に言え」
ぶつぶつと不快そうにぼやいたと思うと、彼は物入れを探りながら身を起こした。
そのまま、かすかな葉擦れの音すらさせず、するりと枝から滑り降りる。何事かと見守るエイの眼前に、彼はおもむろに手を突き出した。
焼き菓子の包みだ……セリス王子から受け取ったときよりだいぶ嵩が減っている。残りをエイに渡そうというのだ。
「いや、僕は、」
そういうつもりでは、と遠慮しかけて、彼は口をつぐんだ。夜闇に浮かぶアハトの表情は至極まじめなものだった。
分け与えることに何の疑問も感じていない。
ただの焼き菓子と言ってしまえばそのとおり、アハトにとって取るに足らないものだろう。だが、エイにはその行動がひどく新鮮に思えた。
「……ありがとう」
そう口走ってから、ありがとう、なんて口にしたのは何年ぶりだろうかと彼は驚いた。
それほど、口になじまない言葉だった。
差し出された包みを、怖々と、貴重品のように受け取って、エイはふとシェシウグル王子を振り返った。
彼はこの一幕に気付く様子もなく、平安そのものといった寝顔をさらしたままだ。
最初の夜には警戒心のなさにあきれたものだったが、今となってはこんなふうに振る舞えるのも理解できる。眠りの守護者として、アハトほど信頼できるものはいるまい。その強さも、生真面目さも、優しさにおいても。
アハトにしても、王子が力尽きた自分を拾い上げるだろうと疑っていなかった。それはれっきとした信頼だ。
……誰かが、眠っている間に自分を決して殺さない、と。そう信じられるのは、どんな気分なのだろう。
そんな「信頼」を、エイは知らず夢想した。
きっと、この上なく幸せなことに違いなかった。
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