志津絵-4
「おはようございます」
朝寝坊をしてしまった丈太郎は、着替えてから階下に降りた。
もう10時を回っている。
「おはようございます。夕べは眠れました?」
笑顔で尋ねる志津絵の顔をまともに見られずに、丈太郎は曖昧に頷いた。
「ご飯を召し上がる?」
「あ、はい」
朝食と夕食は梅林家で用意してくれる約束である。その代わり丈太郎は、家事雑用をこなすのだ。
学費は奨学金である。その他、収入源として新聞配達の仕事も決まっていた。入学まで束の間の休日である。
「あの、先生は?」
「画材を見に行きましたわ。御茶ノ水まで」
「はあ……」
地名を言われたのだろうが、さっぱりわからなかった。
志津絵と二人きりである。
丈太郎は胸が高鳴って、せっかく温め直してくれた味噌汁の味もわからなかった。給仕をする志津絵を盗み見る。帯の上の膨らみからすると、志津絵の乳房は大きいのだろう。
「先生、もう……もうお許しください……あ、ああっ」
昨晩の声を思い出すと、丈太郎の股間がきゅっと反応してしまう。
こんなところで勃起していることに気づかれたら大変だ。丈太郎は急いで飯を掻きこむと、使い終わった食器を盆に乗せ台所へ運んだ。
「あら、ありがとう」
流しで野菜を洗っている志津絵に並ぶと、彼女は丈太郎の肩ほどの背丈しかなかった。
「椙田さん、ご用を頼んでいいかしら」
「はい」
「家の裏に薪が積んであるの。それを割ってくださる?先生はお年だし、私には力がなくて」
「お安いご用です。いくらでも割りますよ」
丈太郎は勝手口の下駄をつっかけると裏庭に回った。積んである薪を手に取ると、台の上に立て斧を振り下ろす。
コーン!と小気味よい音が響いて、巻きは真っ二つに割れた。
何が先生はお年だ。夕べはあんなに夫婦で睦み会っていたくせに。
丈太郎は悔し紛れに斧を振り下ろした。
あんな年寄りが、あんなきれいな人を……。
今夜も。今夜も二人は絡み合うのだろうか。
丈太郎は顔を振ると、卑猥な妄想を振り払った。
午後になって梅林は帰宅した。
自分の部屋で荷物の片づけをしていた丈太郎は、階下から聞こえる声でそれを知った。
志津絵と梅林の会話が微かに聞こえて来る。気づけば、息を潜めて聞き耳を立てる自分がいた。
暇な時はどうしていればいいのかわからない。自由に家中を歩けるわけでもないし、この部屋にじっとしているしかない。
早く大学が始まればいいのに。
丈太郎は片づけを途中でやめ、本を手に取った。田舎から持って来た西洋文学だ。登場人物の行動や言い回しが、なんだか現実離れしていて面白かったが、田舎でこんな本を読んでいた日には「やはり秀才は違う」などとからかわれていた。丈太郎に言わせれば、文字を満足に愛せないやつらの方がどうかしている。読書が好きなことに秀才もクソもあるもんか。下劣なカストリ誌ばかり読んでいるから、語彙も乏しいのだ。
今日は風もなく暖かい。窓から差す日差しも、もう春めいていた。
そうだ。都会の学生みたいに、この本をカフェで読んでみよう。
帝大の近くには、確かそんな学生たちが好んで立ち寄るカフェがあると聞いていた。清楚な紺の制服を着たカフェの給仕が、しゃれたカップに入れたコーヒーを運んでくれるのだ。
丈太郎はシャツの上に中綿の上着を羽織り、本を片手に部屋を出た。
階段を降りた。
出かけて来ると声をかけるべきか悩んだが、子供ではないのだからいいだろう。夕飯までに戻ればいい。
「いけませんよ、先生」
ひそめる様な声が聞こえた。志津絵の声だ。
丈太郎は、夕べ盗み聞きをした部屋の襖を見た。廊下を挟んで、居間の向かいにある部屋は、夫婦の寝室なのだろう。
「彼は二階だ。聞こえやせん。おまえが、声を出さなければな」
昼間から何をしようと言うのだ。
丈太郎はそっと後ずさると、静かにその場にしゃがみ込んだ。
そっと襖に耳をつける。
「先生、こんなに明るいのに。あ……」
微かに衣擦れの音がする。丈太郎は、ごくりと喉を鳴らした。
「あ……ああ……」
丈太郎は好奇心を抑えることができず震える手でそっと襖を引いた。
音を立てぬよう、ほんの少しだけ。
できるだけ体を低くして、隙間から中を覗き込んだ。
こちらに背を向けた梅林が見えた。志津絵は夫と向かい合って正座しているが、目隠しをされていた。
着物の合わせを大きく開き、豊かな胸の谷間が露になっている。梅林はその白い乳房に顔をつけていた。丈太郎は目を見開き、その光景を凝視した。ここにいてはいけない。だが、体が動かなかった。