志津絵-27
その記事を読んだ丈太郎の胸は、チクチクと痛んだ。
その痛みは、あの日「志津絵は病気だ、あなたたちはおかしい」と青臭い見解を梅林にぶつけた時と同じ痛みだった。
「喪主は妻の志津絵さん」
その文字を目にした時、丈太郎は反射的に立ち上がっていた。夏休みで、今日は勤務もない。夕方にはいつものように仕事帰りの冨美子が来るだろうが、それまでに戻って来ればいい。
丈太郎は白い半そでシャツと黒っぽいスラックスを履き、革靴を履いてかつて住んでいた町へと急いだ。
梅林家の外観はほとんど変わっていなかった。
門もあの日のまま、来客を拒むように閉じられていた。躊躇したが丈太郎は門を開けて中に入り玄関の引き戸に手をかけた。この家には呼び鈴がなかった。
新聞記事によれば葬儀は行われず、親族だけでひっそりと送ったようだった。華やかな画壇とは縁のない人物だったのだ。
「失礼します」声をかける。廊下はあの頃と同じように磨き上げられていた。
やがて、奥から志津絵が現れた。
単の着物を着て、髪はきっちりとまとめ上げていた。
「丈太郎さん……」
「訃報を知って来ました。このたびは、ご愁傷様でした」
丈太郎が頭を下げると、志津絵は「それはわざわざありがとうございました」と廊下に手をついて頭を下げた。
「大丈夫ですか?」
「ええ。もう落ち着きました。昨日まで先生の親族の方が出入りしていたんですけど、今はやっと先生と二人になれましたわ」
丈太郎は線香を上げさせてくれと家に上がった。少ないながらも、香典も用意していた。
「お気遣いは無用です。派手なことは嫌いな方ですから、葬儀も親族だけで」
小さな仏壇に、白い骨壷が布に包まれて置いてあった。
丈太郎は手を合わせ、ここで過ごした短い時期を思い返した。
「先生に一体なにが」
「本当に急でした……」
ほんの数日前、夕食を終えて風呂に入り、そろそろ休もうかと言う時刻に梅林は胸の痛みを訴えそのまま倒れたと言う。志津絵はすぐに近所の医者を呼びに言ったが、そのまま梅林は息を引き取った。
急性心不全だった。
気が動転した志津絵は、それからすぐ後のことを覚えていないと言う。梅林の親族に連絡を取り、ばたばたと葬儀をした。親族だけでひっそりと見送ることに文句を言う者もいたが、志津絵は「先生のご遺志ですから」と突っぱねたと言う。
「ひどいものですね。先生が亡くなって骨になったばかりなのに、もうあの人たちはこの家の資産価値だの形見分けだのと」
「だって。あなたが奥さんなんだから、あなたのものでしょう?」
志津絵は首を振った。
「先生がいないんですから。私にはもう何もありません。私がすべて放棄すると言ったら、喜んで帰って行きましたわ。でも、これでやっと静かになりました」
そう言って微笑む志津絵が、恐ろしいほど美しく丈太郎は思わず目を逸らした。
「これからどうなさるんですか?」
「さぁ。何も考えていません。ここを出て、どこへ行こうかしら」
「志津絵さん。僕と……」
そして口をつぐんだ。まだ梅林が亡くなったばかりだと言うのに。しかも、丈太郎には冨美子がいる。結婚の約束をしたわけではないが冨美子はそのつもりだろうし、自分もそのつもりで冨美子を抱いたのだ。しかし。
しかし、冨美子はまだ若く、心身共に健康な女だ。だが志津絵は。彼女には特別な性癖がある。今の自分なら、その性癖も受け入れられる。
「そうだわ。先生の作品を見てくださらない?」
「え」
「先生の最期の作品よ。あの日の、あの絵」
志津絵に着いて、かつての仕事部屋に入った。大きなキャンバスにかけられた布を取る。