シクラメン-2
体がとろけてしまいそうな、長いキスだった。
ゆっくりと唇が、那由多が私から離れると、広いフロントガラスには穏やかで静かな暁の海の景色が広がっていた。
「綺麗な朝だ…」
思わずため息が出て、小さく呟いたら、
「買い出しまで、まだ時間があるから少し歩くか?」
那由多の提案に頷いて車から降りて、静かな漁港を歩いた。
短い堤防には何隻も漁船が並び、港内の穏やかな波にゆっくりと揺れていた。
遠くには高い堤防。その切れ目には、昇り始めた朝日に輝くオレンジの水面が眩しかった。
堤防の先端で立ち止まり、優しい景色に包まれてしばし時間を止めると、
「実はな、近い未来、この辺りに店を構えようと思ってる」
「えっ…?」
そんな突然の告白に驚いて那由多を見上げたら、
「独立する事は結構前から考えてた。やっぱりこういう仕事をしてると、自分の理想が生まれて、自分の気に入った場所に城が欲しくなるんだよな」
真っ直ぐに海を見つめて、穏やかな笑みを浮かべていた。
「那由多は凄いよね。ちゃんと未来まで考えて仕事して…。私なんて、目先の事で精一杯なのに」
「お前が毎日一生懸命頑張ってる姿を見続けてたから、オレも負けないようにって頑張ってこられたんだぞ? お前と一緒に仕事して、何百、何千と励ましあいの言葉を交わしたり喧嘩紛いの言い合いもしたり。そういう積み重ねがなかったら、オレは、今のオレにはなれなかったんだからな?」
そう笑って、那由多は私の手を握って、
「ヒカリが居るから、毎日オレも頑張ってやれてる」
「那由多…」
ずっとずっと、一方通行だと思ってた。
同期で店に入ったのに、私だけどんどん置いてきぼりになって。
私なんか…。
私なんか…。
ずっとそう思う事で那由多との差を、果てしなく開いた距離を仕方ない事だって諦めてたのに、那由多は私の存在を励みに頑張ってきたんだ。
いつも誰よりも早く店に来て、帰りは一番最後。
隙がない、時々冷たくて、だけど芯の強い人。
『たとえ今日が最悪でも、オレが作る料理を食べに来てくれて幸せそうに笑顔を浮かべてくれる。そんな人達にもっともっと報いる料理人になりたいんだ』
まだ那由多が料理長になる前に、片付けを終えて私以外誰も居なくなったキッチンで包丁を研ぎながらこぼした誓いを思い出した。
あの時私が那由多に言った言葉。
もう一度言おう。そう思ったら、自然と握った手に力がこもった。
「頑張ろう。私も絶対自分に負けないっ!」
那由多を見上げたら、
「ほんっと、お前には敵わねえわ…」
照れくさそうに笑って、抱き締められて。
「ありがとな、ヒカリ」
心地よい穏やかな低い声を耳にして思った。
(これが人を好きになるって気持ちなのかな…?)