J-7
「おめえ、こんなとこで何しとる?」
吉岡の前に現れた、犬を連れた男──。身の丈は五尺四寸程で、年齢は六十歳代と言った所だろうか。赤銅色の肌と顔に刻まれた深い皺は、長年、外仕事に従事してきた者だという事を、如実に顕していた。
一瞬、村人かとも思ったが、獣の毛皮を身に纏い、鷹の様に鋭い眼光で此方を睨め付ける形貌は、異様さに満ちており、明らかに百姓から乖離している。吉岡は、戦慄に晒されながらも、目前の人物が何者なのかを必死に探った。
(この格好は……ひょっとしたら“山立ち”じゃないのか?)
山立ちとは、冬山深く分け入り、獣を狩猟、捕獲する事を生業とする者逹で、それ以外の季節は主に、百姓仕事に従事していると聞いた事がある。
(だとしたら、近くに仲間がいるんじゃないのか?)
山立ちは先ず、単独での行動はしない。獲物を追い立てる役に仕留める役等、少なくとも数名が一つの組織を築き、共にするのが一般的である。
但し、それは、狩猟期間中で有る冬の話であり、それ以外の、特に、夏の今時分もそうなのかは吉岡自身、解らなかった。
「──見かけねえ面だが、此処で何しとる?」
吉岡は考える──。美和野の様に小さな村の民は、他所者に対して強い警戒心を抱く。そんな場合、全てを詳(つまび)らかにして、怪しい者で無い事を解ってもらうのが肝要だ。
吉岡は、今一度、勇気を奮って男と対峙する事とした。
「わ、私は、吉岡直道という者でして……だ、大学で助手をやってます」
激しい動悸に見舞われ、吐き気を催しながらも、吉岡は解って貰うべく、懸命に弁明を繰り返す。
「そだな大学のもんが、此処で何しちょる?」
「こ、この村の学校の先生に頼まれまして……か、川の水を調べてました」
「学校の先生だあ?それは誰じゃ。それに、何を調べちょる!」
だが、男は強い敵愾心を緩める気配を見せず、吉岡の弁明を悉(ことごと)く退けると、一気呵成に追い詰めに掛かって来た。
「そ、それは……」
「名前は?言うてみろ!」
吉岡は思う。この有り様では誤解を解くのは困難の極みで有り、最悪、自分に危害が及ぶかも知れないと。
(仕方が無いか……)
雛子に、累が及ぶのは信条とする所では無いが、大なり小なり、今後もこう言った場面に遭遇するはずで、避けては通れない──吉岡は覚悟を決めた。
「──その先生は、河野雛子さんという方です」
「何だと!?」
雛子の名前を耳にした刹那、男の顔付きが急変した。
「河野って、この春にやって来た女子(おなご)先生の事けえ?」
「た、多分……」
「そりゃあ、すまねえ事しただな。許してくんろ」
途端に、眼光鋭かった男の目は垂れ下がり、目尻が皺だらけの笑顔になった。
「儂の孫が、その女子先生に教わっとるんだわ!すまなかったな」
そう言った男は、大いなる勘違いで体裁が悪いのか、取り繕う様に哄笑を繰り返す。
一方、漸く恐怖から解放された吉岡は、腑抜けた様に力無く、地面に頽(くずお)れてしまった。