楠と俺-1
浅野宮蔵は楠が好きだった。理由は簡単。気付けば側にあったからだ。今日も放課後、近くの公園の楠にもたれ、本を読んでいた。初夏の日差しが遮られ、涼しかった。
(何度読んでも泣けるな、ここ…なあ、樟太君)
宮蔵は心の中で背中の楠に話しかけた。樟太とは宮蔵が勝手につけた名前である。
もちろん樟太君は返事してはくれない。
(いいんだ、それでも。樟太君は俺の考えてる事が解る。それだけで十分だ。植物が多分脳波を感じ取れる事は科学的にも解ってきてるらしいしな。)
端から見ればただのアホだが、宮蔵は満足だった。高校二年という条件もまた、宮蔵の心に余裕を与えていたのかも知れない。
(中だるみの時期とはよく言ったもんだ)
そして、宮蔵が再び小説に心を向けかけたその時。
「それ、なんて言う本なんですか?」
宮蔵が顔を揚げると、同年代の少女がこちらを覗き込んでいた。宮蔵は少し体がビクつくのを感じた。
知らない顔では無い。自分がここに居る時によく見る顔だ。近道に公園を横切っているらしかった。
「こ…これですか?斎藤U字路の『いつもの逆転』です」
それは、主人公いつもが毎度襲いかかる逆境をひっくり返すという、単純だが作者の綿密な計算の窺われる作品だった。
宮蔵はこの作者を高く評価していたが、世間での評価が低い事に辟易していた。
「斎藤U字路?知らないなあ。それ、面白いですか?」
(待ってました!)
宮蔵は水を得た魚の様に、この作者の文章表現の丁寧さ、展開の正確さ、自分は良いと思っているが全く周囲の共感を得られない事を一気に話した。
少女は少し面食らった様だった。
「そ、そうなんですか。また今度読んでみます」
「あ、ありがとうございます」
宮蔵は緊張して思わずお礼を言ってしまった。
「あ、早く帰らないとお母さんに怒られる。まだ名前言ってませんでしたよね。私の名前は楠木香織。よろしく」
少女はそれだけ言うと、振り返りもせず走っていった。
(…引かれたかな?いや、それにしても今時『お母さんに怒られる』って珍しいような…)
『お前が気にしてるのはそこじゃないだろ?』
心の声が聞こえたが、宮蔵は樟太君の声だと思った。…続く