一歩-1
一歩
安子は夫正義を送りに出て
「正義さん、終わったの、今日は早く帰ってね」
と、いつもの見送りのキスも濃厚にして、胸をしっかりと焼きを入れるように正義の身体に密着させ、離れるのを惜しんだ。暑い盛りの薄着が刺激を大きくする。
正義はにっこりと笑って、分かった、と言って姿を消した。安子は身体が燃えるように感じたまま、立ちすくんでいた。
この年の二月に二人は式を挙げた。安子は男の経験があったが、正義はなかった。二人の夫婦は徐々に小さな障碍をかたづけて今や最高の回転で廻っていた。
安子は結婚以来正義の行動が他人に比べるとなんか少し違うようなと感じていた。とにかく動作が遅い。
「正義さん、今日は終電にならなければよいが」
じっとしていると、余計な妄想をする。安子は結婚と同時に二人で金を出し合って中古の一軒家を購入していた。広くもない二階建て、二階から掃除を始めた。
午後は栄養の付く食材を購入、食事の時間が短い料理を考える。
正義は定時に会社を出ても帰宅は八時を回る。七時に安子は風呂に入って、少し驚かすような下着にして軽く香水を振る。帰ってきたら直ぐ、そして食事、入浴、就寝、妄想が膨らんでくる。
パソコンを起動させてネットの女性用のビデオを開いて、熱中する。
「十時・・・・・・終電かな」
正義は地方の国立大学の文学部を卒業した。教師は嫌いなので教職課程を専攻しなかったため就職は不利で、やっと小さな自動車部品会社の倉庫担当で就職した。
製品の出入りの管理で、造る部品の種類は少ないけれど各社共通の部品であるため、出入りが煩雑である。正義は何種類かの製品を担当しているが、仕事が安子の思っている通りで遅い、ただ間違いがない。
小さな会社だから 残業手当は微々たるもので、管理職に直ぐになって手当は打ち切られた。部下というのは契約社員だけ、残業はさせられない。
安子に朝出がけに言われて正義の胸がときめいた。一週間ほど、規則的に来る休触日、正義はそれが今夫婦生活で一番辛い。待っていた解禁日・・・・
「十時、よし終わった」
門を出て正義は気がついた、最後の伝票を計算が終わったら差し込もうと整理棚に磁石で貼っておいたことを。
駅の階段を下りきったとき、。十時三十分発の電車が発車した。正義はがっくり、会社から走った汗が一辺に吹き出した。
正義はこの電車に乗り一時間ほどして乗り換えの駅で他の電車に乗り換え二駅で下車、徒歩二十分で自宅。
電車の所属会社が違うため、十一時発が終電。駅のホームが離れているので、本線の電車の先頭に乗って、降りたら一目散に走らないと間に合わない。二社の電車は、一番乗客の多い区間併走しているために仲が悪いのが、この支線にも影響している。
「野中さん、また乗り遅れ」
「そうよ、階段下りたら、電車いっちまった」
「ゆっくり飲めますね」
「こんなときでなければ・・・・・・いつもの居酒屋定食にトンカツを」
「野中さん、乗り遅れ?」
「アア、Hビデオしっかり見るよ」
「今日はお泊まり少ないから、お風呂は空いていますから」
「下より上の方が良いから頼むね。空調は効いているね」
翌朝簡易ホテルから出勤。
「アレ、野中さん・・・・・・」
「野中、お前脚有るのか?」
「何言ってるんですか部長」
「おい、テレビ点けろよ、お早うニュース」
「これは、昨日オレを置いていった電車」
追突した一両目が無惨な姿。正義は身体の震えが止まらなかった。
「みんな早く来て、お前のことをどうしよう、と相談しかけたところだったんだよ」
「それで、みんなが揃って・・・・・・・僕の葬式?」
「おまえ、震えているのか? そうだろうな、あの世から戻ってきたんだもんな。脚有るよ」
「奥さん?この度は・・・・・・・・・」
「色々とお世話になりまして、有り難う御座います」
「いいえ、いつも野中君には頑張って貰って・・・・・・・・」
「おい、野中、奥さん、泣いているぞ・・・・・」
「一寸奥さん、泣くのは止めて、幽霊が話したいそうです」
「え? なんですって」
「幽霊とセックス、部長さんも人が悪い、さんざん私を泣かしといて、幽霊と替わりますって・・・・・・・・幽霊って年を取らないのでしょう。毎日大丈夫ね」
「昨夜、もう一歩踏み込んでいたら」
「正義さん言わないで、震いが停まらなくなる」
「次の休蝕は無事だろうな」