橙-4
しばらくして大きな吐く息の音とともに
演奏が終了して奏くんの手が止まった。
「び、ビックリした」
やっとのことで声が出た私に、恥ずかしそうに笑うと
「今のは指の練習曲」
今ので、練習曲?
「今日弾く予定の曲を一通りさらうから待ってて」
そう言って、再び表情を変えると
一気に静かなトーンでバックミュージックへと転身した。
お客さんの会話の邪魔にならないように。
会話が途切れた時に、少しでもこの音が会話を続けるきっかけになるように。
静かに、優雅に音が鳴り響く。
そんな時間を気がつけば1時間も過ごしていて。
あと1時間もすれば開店の時間だと言うので
私は立ちあがって帰ろうとした。
「茜さん。最後に何か1曲、好きな曲を弾くよ」
そう言って優しく笑う顔は
今まで音を支配していたような演奏者ではなくて。
今日1日、私と過ごしたハタチの青年の顔だった。
「私、ピアノの曲なんか本当に何も知らないから」