方向が違いますから-2
直ぐ帰ってくるから
新道庄一は三十七才、理科系の出版社のゴーストライターである。毎日出勤しないで、会社が渡す資料を基に原稿の下書きを考えて書く。原稿一枚幾ら、資料を纏めて下書き作成して幾ら。その都度の支払いは違うが良い額が貰える。
「新道、君は女知らないね」
「はい、不調法なもので」
「それは遺憾、今日はこのぐらいにして風俗へ行こう」
「風俗って、あのどの風俗で」
「何言ってんだよ、歴史ではないよ、生身の女が相手の風俗だよ」
と、今年五十五歳になる出版社の直属の上司に連れられて始めて、風俗の世界に首を入れた。
店の外はけばけばしいネオンや看板であるが、通された部屋は柔らかい雰囲気の調度が使われていて気持ちが段々と落ち着いてきた。お茶だけ出されて暫く待たされた。上司は入店の時に帰りは別々に帰ろうと言われたので、庄一はゆったりとした気分で周りを見回した。
三十分ぐらい待たされただろうか、少し酒が入っていたのでうとうとと眠っていると、
「お客さん、お客さん」
耳許で声がして良い香りが鼻を突いてきた。
「待たしてご免なさい、今日は有り難う御座います。恵利と申します」
「ああ、新道です、初めてです、宜しくお願いします」
「新道さんは本当に初めてなのですね」
「はい、こんなマッサージは初めてです、気持ちが良いですね、身体を洗って貰って、いい匂いのオイルで、これで帰ってから仕事が出来ます」
「帰られてから仕事ですか」
「はいそうです、気分が向いたときに一気に仕上げます。恵利さん、どうも有り難う。また来ますからお願いします」
「恵利さん早かったのね」
「初めての人で、身体洗って、一通りオイルで揉んで」
「それだけ?後の方はなかったの」
「一応は、なるようになってたけれどね」
十日ほどして新道が今度は恵利を指名してきた。
「指名ってよく分からなかったが、今度からそうするね」
揉み終わると喜んで帰って行った。
月に三回か四回、新道は恵利を指名して入店してくれた。
「新道さん相変わらずね。恵利さん次に思い切ってやってみたら?」
「なんか気の毒な気がして」
「生娘みたいなことは言わないで、恵利さん」
指名客が多くて新道が最後になった。
「ご免なさいね新道さん、最終になっちゃった」
「いいよ、僕は勤め人でないから」
「今晩一緒に帰りましょう、何処か食事に連れて行って」
「店はもう一つだけれど、おいしかった。新道さん、今晩泊めて、恵利帰るのが嫌になってきた」
「いいよ、ここから直ぐだから、空いた部屋に泊まったらいい」
「新道さん、家族は?」
「三人弟妹だが、弟は北海道、妹は千葉に嫁いで子供一人。家は広いが僕一人だよ」
そのまま恵利は新道の家に泊まり続けた。
一週間、土曜日の朝、
「新道さん、一寸出てくる、直ぐ帰ってくるからね」
一寸出てくるから、恵利さん綺麗にして、おしゃれなんだな。
夕食を造って一緒に食べようと待っていたが、帰ってこなかった。
「ただいま」
「お帰り」
月曜日の昼頃に恵利は帰ってきた。
「おいしそう、食べて良い」
「恵利さんの分だから、食べて」
月に二回から三回、恵利は「直ぐ帰ってくるから」
と言って出て行くと、三日、四日留守にして。「ただいま」と、屈託のない顔で帰ってくる。店は続けている。
半年ぐらいになったかな、新道は昼頃「直ぐ帰ってくるから」と、出て行ったときに同居の日にちを数えてみた。
今回は長かった十日経ち二十日経ち、一ヶ月、同居を始めた頃から懸かっていた電子機器の論文が仕上がった。明日これを持っていこう。 時計を見ると十一時が過ぎていた。今日も帰らないだろう。床に就いた。
何か大きな物が横にある、新道は目を覚ました。部屋が明るかった。電気消したはずなのに、
「新道さん、ただいま。直ぐ帰ったでしょう」
「恵利さん、お帰り。一寸長かったね」
「恵利、結婚しようとおもって、私のマンションで同棲していたの」
「そうだったの、よかったね。荷物を取りに?」
「いやだ、冗談言わないで、恵利は新道さんと結婚するの。経験ないでしょう。教えてあげる」
新道と恵利の同棲生活が始まった。一ヶ月すると、
「庄一さん。直ぐ帰ってくるから」
「はい、行ってらっしゃい、気を付けて」
「ハーイ」
三日ほどして帰ってくる。女も遊びたいんだろう、一回り若いんだし。新道は恵利をそう思って何も言わなかった。自分への愛は変わらないから。コンビニへ鉛筆買いに、
「恵利さん、直ぐ帰ってくるから」
奥から恵利が走ってきて大きく両手を広げて新道の前に立ちはだかった。
「だめ、一人は駄目、私付いていく」