月明かりと菜の花-1
慌ただしい一日が終わりを迎えたのは二十二時を過ぎた頃だった。
女子は私しかいないという理由もあり、一室しかないロッカールーム。一番最後に着替えを済ませるのはいつもの事だから慣れたと思っていても、心の底では男尊女卑的な理不尽さを感じて疲労が増してる私もいたり。
着替えて、ため息に混じりの疲労感を落としながら部屋から出ると、佳那汰君がロッカールームから少し離れた場所にいて、私を見て嬉しそうに笑んだその顔を見て、待っててくれていた事を悟った。
「お疲れ様、こうせいちゃん」
彼の笑顔を見ただけで嫌な疲労が瞬時に安堵へと変わってしまう現金な私に苦笑いしたくなるのを堪えつつ、
「お疲れ様、初日から大変だったね」
労いの言葉を向けあいながら、ゆっくりと二人で歩き出すと、
「兄貴はやっぱり凄い人だね…。どんな逆境にも冷静でさ」
「あんな奴大嫌いだよ」
那由多の名前を耳にしただけで、朝の仕込み、貯蔵庫でされた事が瞬時に頭に浮かんでしまった。
思わず声が荒くなった私に驚き、戸惑いの色を含む声で、
「…どうした? 兄貴となんかあった?」
佳那汰君は苦笑いしながらそう私に尋ねた。
「…べ、別に…なにも…」
「こうせいちゃんて、昔から嘘が下手だ」
「なにもないもん!! なにかあったって言えない事だってあるもん!!」
動揺が隠せず、歩く足が速くなる私の手を取り繋ぎ合わせて、佳那汰君は言葉を返す事なく黙って歩いてる。
左手から伝わる自分のものではない人の温度は、春先のまだ寒い夜にはちょっと切なくてとても温かい事に気付いた。那由多となにも事が起こらなければ、私はきっとこの温かさに素直に幸せを感じていたと思う。
だけど今はそんな佳那汰君の温かさや優しさに居心地の悪さを感じてしまって、心の深くで嫌な霞が広がるばかりだった。
結局私達は電車を降りるまでずっと無言だった。
無人の改札機に定期を翳してゲートを抜けると、地元に戻った小さな安堵感を得て、大きくひとつ深呼吸をしたら気持ちがなんとか立て直せそうな気がした。
今日の霞を晴らして、明日をちゃんと迎えたい気持ちが私の心の堰を切るかのように動き出した。
「私は佳那汰君に優しくされる資格なんてないんだよ。だって、今日、私…那由多に…キスされた」
佳那汰君に視線を合わせて話す勇気までは持てなくて、なんとか気持ちを落ち着けて話す為の景色を探した。
今日は新月なんだろうか。月明かりがいつもより強くて、明るい夜だ。
「油断してた私が悪いんだよ。だって、だって、那由多が無理矢理あんな事する人だなんて、今まで一度だって考えてもみなかったんだよ…」
頭の中で果てしない言い訳がぐるぐると廻るけれど、それがうまく言葉として喉から出て来ない代わりに、涙がこぼれた。
「…こんな歳なのにね、キスなんて初めてだったんだよ」
恋愛が不得意な私は、仕事が忙しい事も重なりなんの経験も得る事なく二五歳になってしまった残念な女なんだよ。
いい加減ファーストキスに憧れを抱く歳じゃないってわかってるけど、だけど、気持ちや意思は大事にしたかった。
無理矢理気持ちを押し付けられて奪われた事が、どれだけ悲しかったか。