月明かりと菜の花-2
「…ねえ、こうせいちゃん…」
佳那汰君は拗ねたような顔をして私から視線を外して、
「僕が今、こうせいちゃんとキスしたいって言ったら、嫌? 怒る?」
「えっ!? なっ!」
「僕だってこうせいちゃんとキスしたいよ…」
そんな呟きに、恥ずかしさと動揺が隠せるわけがなく。
「あ、あのね? そ、そんな簡単な感じで、キ、キスとか…」
「簡単じゃないよ。僕だって、これでも結構勇気出してるよ…」
佳那汰君と視線を合わせたら、泣きそうな顔で私を見つめてた。
「そ、そんな顔されたって…」
そう思って言葉にしてみても、私は佳那汰君から視線が外せなくて。そんな私に、
「じゃあ、抱き締めるだけで我慢する…いい…?」
「一々聞かないで欲しいよ。なんか恥ずかしい」
「だって…、無理矢理されたら嫌な気持ちになるし、悲しいでしょ…?」
「そ、それは那由多にされたから! 佳那汰君だったら全然嫌じゃない! むしろ嬉し――はっ!!」
自分が思わず放った大胆な言葉に驚いて、恥ずかしさで顔が瞬時に熱くなった。そんな私に、
「こうせいちゃん…好きだよ。ずっと昔から、変わらずそう思ってたし、これからもずっと好きだよ」
佳那汰君は照れ臭そうな声と共に私を抱き締めてくれた。
「…私は…、まだわかんない…。だって…佳那汰君にこうしてまた会えた事だってまだ夢みたいで…。それに私…、恋とか今までちゃんとしたことなくて…」
情けないけど、私には「好き」ってよくわからくて、曖昧な言葉しか彼に向ける事しか出来なかった。
「僕だって本当はよくわからないよ。だって、僕はこうせいちゃんの事しか思って生きて来なかったから。他人にこんな事したことないし、こんな恥ずかしい事した事もないし。好きって言葉を伝えるのはこうせいちゃんだけがいい」
「佳那汰君…」
顔を上げたら、月明かりに浮かぶ、佳那汰君の切なげな笑みがあった。
「どうしてこんなにも? あれから二十年も経ってるのに、なんでこんなにも私を思ってくれてたの?」
幼い記憶なんて、簡単に風化してしまうはずなのに。
「…あの頃の僕の生活にはね、孤独しかなかったんだよ。毎日ケンカして疲弊する両親は、僕の存在なんてお構い無しでさ。甘えたくても手を伸ばす事が出来なかったし、これからどうなってしまうか不安で堪らなかった。そんな僕の唯一の光だったのがこうせいちゃんだったんだよ」
保育園から帰ると、いつも団地の公園で一人でブランコに乗ってた佳那汰君を思い出した。
日が暮れても中々帰ろうとしない佳那汰君を見て、母はよく夕飯に誘った。
「佳那汰君と並んで、一緒に笑いながら食べた夕飯はとても楽しくて普段の夕飯より数倍おいしかったなぁ…」
思い出したら、小さな笑いがこみ上げてきた。
「僕だって楽しくておいしかったよ。おばさんの作るイタリアンスパ、僕の大好物だったよ」
「単にパスタを野菜やウインナーと炒めてケチャップで炒るだけのものなのにね。私、今でも好きだよあのスパゲティー」
「こうせいちゃん、口の回りケチャップだらけでさ、おばさんに女の子なんだからもっと行儀よく食べなさいとか怒られたりね。二人で口の回り真っ赤にして指差しあって笑ってさ。ああいう楽しい事が心の中にずっと留まっててくれてて、辛い時の支えになってくれてたお陰で、僕は調理の道に進めたんだよ」
思い出を語る佳那汰君の顔は、とても優しくて。ずっとずっと長い時間大切にされてきた事が私の心に染みてくるような感覚に包まれて、笑みが溢れた。
「佳那汰君……」
考えるよりも先に、私の両手は、佳那汰君の頬に伸びて、
「キスしたいな…」
思いが言葉になって、喉から溢れた。そんな私の衝動に、小さな驚きで目を見開いた刹那、ゆっくりと佳那汰君の瞳が細まり顔が近づいてきた。
目を閉じると唇に温かさが重なり、私の真っ直ぐな黒い前髪に佳那汰君の柔らかな髪が触れた。
唇が触れただけの短いキス。それだけでも、めまいがするほどに、動悸が激しくなったのに、
「もう一回…」
佳那汰君はそう呟いて、再度私と唇を重ねてきた。
一度目のような軽いキスではなく、二度目は唇を貪られるかのような濃厚なものだった。
不慣れで息継ぎが上手く出来ないけど、なんだかそんな不慣れささえも心地よくて。
お互いの小さな吐息が静かな夜の中に溶けていくような感覚が少し怖かったけど、それ以上にもっとずっと佳那汰君とこうしていたい。そんな火照る気持ちに溺れていた。
「今度の休み、一日一緒に過ごそうね」
家まで送ってくれた佳那汰君の笑顔の提案に、私は大きく頷いて、
「明日も頑張ろうね!」
笑顔を返して応えた。