#1-2
「ごめんくださーい。お晩です〜。夜遅くにごめんなさいねー」
よく知っている声を耳にした少年は布団のそばから立ち上がると、襖を開けて玄関へ向かう。「はい」と返しながら鍵を外し、扉を引きあけた。玄関前の小さな風除室には友達の母親が緊張した面持ちで立っている。
「今晩は。永井君のお母さん」
いつものように愛想良く、少年は静かな笑顔で応じた。
その普段通りな調子に、永井の母親の心に訳も無く不安が湧きあがってくる。思わず眉をしかめた。
「何の御用ですか?」
「お母さんは居る? ちょっとお話があって……。電話でも良かったんだけど、近所だし、大事なことだったから……」
彼女は適当な理由を口にする。両親は離婚したと聞いた。そのため少年の母親は遅くまで働いていたので、今の時間はいるのかどうか解らない。けれども……。不安が益々大きくなるのを堪えながら、勤めて平静な声をだす。
「母は、病気で入院しています。今はいないんです」
その答えに彼女の表情が厳しい物に変わっていく。
「まあ、それは大変ねえ。何処の病院なの? お見舞いに行かなくちゃいけないわ」
「遠くの町の、大きな病院なので……」
「何処の何ていう病院? 名前は分るかしら?」
「あの……、えーと……」
迷うように言葉を濁した少年を見ると、彼女はお構いなしに上がりこんだ。
脇に退いた少年が僅かに表情を変える。
居間へ続くドアを開けると彼女の足が竦んだ。玄関に立っていた時にも嗅いだ臭い。彼女は子供が生まれる前、看護士をしていた。NGOで海外での活動経験もある。それで気が付いた。北国の家は寒さ対策で密閉度が高い。それでも抑えきれずに洩れでていたのか、漂っていた匂いはどうしようもなく室内をびっしりと満たしていた。肉が腐るのとも違う、説明し難く、強いて言うなら二度と嗅ぎたくないと思うような、複雑な臭い。
喉を這い上がってくる吐き気を抑えながら口元を手で被い、彼女は足を無理やり動かす。
台所のある居間には奥に部屋が二つあった。一つは少年の部屋で、もう一つは母親の部屋だ。廊下は無く、他はトイレと風呂があるだけの、ごく小さな平屋の一軒家。何度か訪れた事のあるその家の、母親の部屋である方の襖を思い切り引き開けた。