笛の音 1.-7
ゴリ押ししてくるわけではない。かといって泳がされるわけでもない。息苦しくも物足りなくもない丁度良い距離感だった。ビールを飲みつつ次は映画に行かないかと誘ってきている明彦に、会社でも、そして家庭でも見せぬ無邪気な笑みを向けつつ、有紗はこういう時間が続いて付き合っていくのかもしれない、何だか大人な感じだな、と頭の片隅でデートしている今の自分を俯瞰していた。
付き合ったのは一人だけだ。できれば思い出したくないが、まだ鮮やかさは褪せない。
高校二年の時、中学時代に有紗のことを非常に慕っていた後輩に突然呼び出され、会って欲しい人がいると言われた。
「誰?」
「……いや、たぶん、センパイは知らないと思うんですけど……」
後輩は言い淀んだあと、「あの、ウチの付き合い長い男友達が、センパイに惚れちゃったらしく」
「えー、なんだよ、それ。……誰?」
「んと、センパイ、視線感じたことありません?」
「うわ、ヤバい。こわいこわい」
有紗は笑って腕を擦ってみせると、後輩は慌てて、
「いや、そんなキモい感じのやつじゃない……、てか、むしろイケてる感じですよ。学校でモテまくってるってウワサですし」
と慌てて訂正した。後輩は小学校の時からスイミングスクールに通っていて、そこで隣の学区の男の子と仲良くなり、ずっと友達でいる。その男の子と同じ中学に通っている友達に聞くと、同級生や後輩からかなりモテているらしい。
「――っていうか、センパイ、実はアイドル系、大好きじゃないですか」
「実は、って失礼だろ」
年齢に比して大人びた容姿となっていた有紗は頻繁に告白されたが全て断っていた。断っていた理由は単純にタイプではなかったからだ。姿は大人びていても、価値観は未熟だった。有紗の理想のタイプはテレビで見るようなティーン・アイドルグループのような男の子だった。ウチワに写真を貼りつけてコンサート会場で振ってみたいという思いすらあったが、自分を尊敬している妹にそんな姿を見せられはしないと自制していただけだ。それでも部屋の中でこっそりと、雑誌に写る彼らを陶然と眺めたり、夜音漏れしない音量で彼らの曲を聴いたりしていた。
「結構、センパイのド真ん中な感じだと思うんだけどなぁ……」
「ていうか、あんたも実は狙ってたりするんじゃないの? その幼なじみ」
「……はは」後輩は乾いた笑いを浮かべて、「小学校四年のときにバレンタイン告りして、撃沈しましたよ」
「ふーん……。まだ引きずってたりする?」
「いや、そんな奴じゃないんスよ。スカッとその後も友達やってける感じ。今回だって好きな人ができたって言われて、じゃ、一発、協力してやろーって気になってるし」
「どんな奴なんだよ、それ」
わざわざ会って断りを入れるのは面倒だったが、後輩が必死になって頼み込んできたから、有紗は渋々了承し、言われた日時に水戸駅で待っていた。当日まで、どう断ろうか、しつこかったら嫌だなと考えを巡らせていた。そして駅に後輩と一緒に現れた男の子を見て、ヤバい、と思った。受け付けないタイプが来たからではない。逆だ。
目の前に現れた男の子は、さっさとプロフィールを書いて事務所に応募しろ、と言いたくなるほどアイドル系の顔立ちをしていた。真ん中で分けたサラサラとした髪に、はっきりとした二重で女の子のような面をしている。ニキビ・肌荒れ、そんなもの全く無い。身は細いし脚が長いが、近くで見ると水泳をしていただけあって、肩の辺りは筋肉が残っている。
「伊藤……、直樹です」
有紗を前に頬を強張らせていた。緊張している表情が可愛らしい。そして年上らしい余裕綽々の態度でフッてみせると思っていた有紗もまた、直樹の顔立ちを前に緊張してきてしまった。
「どうすんの? 自分で言うの?」
後輩が直樹の尻を叩く。「……あ、いつもはこんな感じじゃないんですよ?」
直樹がゴクリとツバを飲み込んでいるのが見えた。やたらとドリンクのストローに口をつけ、チラチラと有紗を窺ってくる。有紗もまたじっと見てはいられなくて、わけもなく髪を梳く仕草で、ファーストフード店のガラス戸の外に見える景色を眺めてみたり、摘んだ毛先を見つめてみたりした。
「……何してんスか、あんたら」
静寂が続く二人の様子に後輩が笑った。特に有紗がそんな畏まってしまうとは思ってもみなかったようだ。周囲では同年代の中高生がキャッキャと声を上げて話しているのに、有紗たちのテーブルだけは何も話さず、お互いの顔色を窺っては、目が合って驚いている。
「――じゃ、私、行きますね」
写真撮っといていいスか、と冗談を言って有紗に必死の拒絶をされて笑い、二人の様子を観覧しながらパクパクとハンバーガーを食べ切って包紙を丸めた後輩がトレイを持って立ち上がった。
「え、ちょ、ちょっと待ってよ」
「だって」後輩は諦めたように首を振ると、「私ココにいた二十分、何一つすることなかったんで」
とカバンを肩に背負った。そして立ち去り際、直樹に向かって、
「直樹、これ、かなり脈あるよ」
と、有紗にも聞こえるように言って店を出て行った。