凪の時-1
「…マスター、私ね…」
この二週間、私がどんな状態でどんな生活をしていたかをマスターに聞いて貰いたかった。
毎日毎日、白い部屋。出来る事は殆どない。
なにも出来ず、無駄に嫌な事を考えるだけの時間が辛かった。
どうしてこんな事になってしまったんだろう。
何故こんな大事な時期に、何故私が…。
主治医にはこればかりは防ぎようがない、貴女が悪いわけではなく、誰しもが発症する可能性を持っていて。確率に当たってしまった事を悔やまないようにと気休めを言われた。
わかってる。だけど納得して飲み込めるほど、私は素直じゃない。わかってる…。
「こうして美味しいお酒も料理も出して貰えてるのに…薬の副作用で私の味覚…凄く鈍っちゃってるの…。いつもなら、ここに来れば心が解けるように穏やかになれるはずなのに…」
ささやかな楽しみさえも失ってしまった感じがして、涙が止まらなかった。
「やっと、やっと…憧れの先生の担当を勝ち得たのよ。ここまで来るのに必死で仕事してきた十年、費やした沢山の時間は一体なんだったんだろ…」
ずっとその作品の素晴らしさに憧れていた絵本作家、山中あきら先生。
その素性は先生のご希望で全て秘密。彼を知りたければ担当に選ばれるように頑張る事。
編集長にそう言われた日から、私は山中先生の担当になる事を目標にがむしゃらに仕事をしてきた。
職場で倒れる三日前に、漸く苦労が報われて。
山中先生の担当に就く事が決まり。
そして、会社で発作を起こして倒れたのが先生との初顔合わせの日の朝だった。
当然、担当からは外され、
「今はキミの体が大事だ。まあ、後の事はまたゆっくり考えよう…」
見舞ってくれた編集長の言葉にはあきらかに落胆が混じっていた。
「もう…ダメだよ。きっと、仕事も続けてはいけ
ない。全部、全部無くなっちゃうんだ…。もう嫌だ、結局私はどう足掻いても無価値なんだ…」
俯いて、嫌でも認めるしかない自分の価値の無さを口に出したら、心が空になった気がした。
そんな私の惨めな愚痴を静かに聞いてくれていたマスターは、
「ねえ綾乃さん。人の価値は、自分一人だけで決めつけるものではないよ」
穏やかな低い声で私にそう告げると、
「綾乃さんが頑張ってるのは、僕がちゃんと知ってます。貴女は目標に向かい、誠実にずっとずっと頑張ってきたんです。だから無価値だなんて自分を貶める言葉はダメだよ」
ゆっくりと諭すような口調を私に向けた。
「マスターに私の何が分かるっていうのよ! 私の事なんてなにも知らないくせに! そんな綺麗事言われたって――」
「綾乃さん!!」
苛立ち、立ち上がった瞬間。私の体は目眩に襲われて、惨めにもに崩れ落ちた。
そんな私を抱き抱えて、病院へ戻ろう説得するマスターの声が、だんだん遠退いていく。
「嫌…、お願い…、病院…戻りたく…ない…」
私の精一杯の声は、マスターに届いただろうか…。
霞ゆく意識の中で、そんな事を思ってた。