凪の時-2
目を開けたら、病室ではなく、全く知らない部屋だった。
柔らかなオレンジの間接照明の中、ぼんやりと霞の覚めない頭。視線だけで辺りを見渡すと、重厚感のある大きな本棚に目が行った。
「気がついた…?」
意識を取り戻した私を心配そうに覗きこむ、私と歳の大差ない、穏やかな声で優しい瞳の人。
「マスター……」
呟いたら、申し訳なさと情けなさで胸が軋むように痛んだ。
「大丈夫だよ。病院へは連絡はしたけど、なんとか今日は外泊出来るよう許可を貰えたから」
「ごめんなさい…お店…」
「いいんだよ。見てわかったでしょう? 今日は暇だったから問題ないよ」
幼子を宥めるように、マスターは私の目頭をそっと撫でるように涙をぬぐい
「なにも心配せずに。ゆっくりと休みなよ」
そっと笑みをひとつ、向けてくれた。
そんなマスターの温かい手が私から離れて欲しくない。そう思って、
「…独りが怖いなんて、初めて思ったよ」
マスターの手を握り、頬に寄せた。
「孤独なんてずっと平気だったのに…」
溜め息と一緒に呟いたら、
「孤独な時間の中にも、必ず凪の時はあるものです。綾乃さんはそれを知ってるから、怖いっていう素敵な感情を見つける事が出来たんだよ」
「凪の時…?」
「うん。凪の時」
オレンジの照明に照らされたマスターは、穏やかに笑んで、
「綾乃さんは夕刻の海辺を歩いた事があるかい?」
そう訪ねられて、遠い記憶の中のある景色を思い出した。
「私、郷里が離島の漁師町だったの…」
島にひとつしかない学校。一人ぼっちの夕暮れの帰り道。漁を終えた漁船が並ぶ誰もいない漁港の堤防をゆっくり歩くのが好きだった。
どんなに風が吹いて、波が立っている海でも、不思議な事に夕暮れのほんの僅かな時間だけは、風が止み、波が穏やかになり、海面が夕日の色で美しく輝いてた。そんな景色を眺めると寂しい心が慰められてた。
ずっと後に、風が止む穏やかなその時を『夕凪』と言うのだと知った。それをマスターに話すと、
「今、この時間が、綾乃さんの凪の時になればいいな…」
マスターは、私が離さない手を優しく握り返して、
「僕の大切な綾乃さんがまた少しずつ、元気になりますように」
そう言って、照れ臭そうに微笑んで、私の手を両手で包んで、指にそっと口付けをくれた。
「マスター…?」
「綾乃さんは鈍感だから…」
「え…?」
「僕はずっとね、綾乃さんが好きなんですよ?」
マスターの突然の告白に、
「マスターだって…。私だって、ずっと貴方が好きだったのよ…?」
涙が溢れた。