9章-1
「ヴィヴィっ、いい加減にしなさい! やる気がないのなら出て行って!」
早朝のリンクにジュリアンの厳しい言葉が轟き、ヴィヴィははっと我に返る。
クリスを含め、一緒に練習している仲間達が、何事かとヴィヴィを振り向いていた。
(あ、れ……私、今、何して――)
確か数分前までは、スピンのポジションを調整していたはずだった。
けれど、その後の記憶は――、
「私……すみませ――」
おたおたと弁解しようとするヴィヴィだったが、「ヴィヴィ、こっちへ来なさい」とサブコーチから呼ばれ、しょうがなくそちらへと足を向けた。
「今日はもう上がりなさい」
厳しい顔のサブコーチに、ヴィヴィが焦って口を開く。
「だ、大丈夫です。私、まだやれます!」
「集中できない時に無理に滑ったら怪我するだけだよ。いいから今日は上がってストレッチしてなさい」
サブコーチのもっとも過ぎる指摘に、ヴィヴィは言葉を詰まらせた後、静かに了承して氷の上から降りた。
エッジカバーをはめて、小さな観客席となっているベンチに腰を下ろす。
外から見たリンクは、薄く靄(もや)がかかって見えた。
もうすぐ夏だというのに、梅雨が明けきらず湿度が高いのだろう。
(まるで私の心の中みたい……。靄がかかって出口が分からない――自分の事が、解らない……)
あんな妄想に至ってしまったのは、単なる気の迷い――そう自分に言い聞かせているのに、自分の心はざわざわと音を立てて彷徨い、理性がコントロールしようとするのに追いつかない。
匠海に合わせる顔がなかった。
実兄である兄を、あんなはしたない妄執(もうしゅう)の相手にしてしまった事が申し訳なかった。
ヴィヴィは匠海を避けるようになった。
タイミングの良いことに、期末試験が迫っていた。
ヴィヴィは屋敷の中でも勉強を教えてもらうと言ってクリスの部屋に入り浸り、常に彼と行動を共にした。
無事試験を乗り切るとすぐに三日間のジュニア合宿が名古屋で行われるため、東京を後にした。
ノービスの頃から毎年合宿に参加しているヴィヴィは、いつも出発日に「試合でもないのに、お兄ちゃんと三日間も離れるのやだぁ!」と散々ごねて周りを困らせていた。
しかし、今年は何も言わずに粛々と準備を進めるヴィヴィを、周りの大人達は「ヴィヴィも大人になりつつあるんだね」と呑気に見ていた。
けれど意識的に避けていても、家族なのだから必ずどこかで顔を合わす。
名古屋から帰ってきた双子と母を迎え、家族でディナーの時間が設けられた。
約二週間ぶりにまともに見た匠海は少し日焼けしていた。
白くて並びの良い歯がいつもより眩しく見える。
明日からもう八月だ、きっと誰かと海やプールへ繰り出したのだろう。
誰かと――。
(……誰、と……? 麻美さん、と……?)
「……………………」
機械的に食事を口に運んで咀嚼していたヴィヴィは、また自分が気にすべきでない事を考えてしまった自分を叱咤し、咀嚼し終えたものを飲み込む。
味なんて感じる余裕すらなかった。
八月初旬はアイスショーに出演し、ヴィヴィは自分で初めて振付した When you wish upon a star を初披露した。
周りの反応は上々だった。なんと日本スケート連盟の幹部も見に来ていたらしかった。
『可愛らしくて無邪気なヴィヴィに、ピッタリよ!』
『自分で振付したナンバーだからかな? 表現豊かに滑るようになったね』
周りからの賛辞にも、ヴィヴィは礼を言って曖昧に笑みを零すことしか出来ない。
星に願いをかけるなら
君がどんな人だって構わない
心から願う その気持ちは きっと叶うんだよ
(本当に――?)
栃木県日光でのアイスショーを終え帰宅の途につく車中、ヴィヴィは東京の煌びやかなネオンをドアに凭れ掛かり、見るともなしに見ながら疑問に思う。
(本当に、私が『どんな人』だって、心から願えば願いは叶うの――?)
ついと視線を上げて夜空に星を探したけれど、地上の明るさに簡単に掻き消されてしまう微弱な星の光は、ヴィヴィの瞳には届かなかった。