8章-2
その日も、クリスとみっちりレッスンを受けたヴィヴィは、気分上々で篠宮邸の門をくぐった。
ヴィヴィが即興で造ったエキシビションナンバーを、母と若干 手直しして完成させたのだ。
私室に戻り、手早く入浴を済ませバスルームを出ると、
驚いた事にリビングの白革のソファーに、匠海が長い脚を投げ出して座っていた。
「あれ。どうしたの、お兄ちゃん?」
ヴィヴィはしょっちゅう兄の部屋を訪ねるが、その反対は殆どない。
あまりに珍しい匠海の行動に、ヴィヴィは首を傾げた。
「うん、別に用事があったわけじゃないんだけど。ここ数日、2人とあんまり顔、合わせてなかったから……」
そういえば、朝は匠海が起きる前に家を出て、学校から帰ってきても宿題を終わらせ、ピアノとヴァイオリンをそれぞれ練習し。
ディナーを取って直ぐに、リンクへと向かってしまっていた。
しかも24時前に帰宅しても、カレンから借りたコミックを早く読んでしまおうと、寝室に籠っていたので、匠海の顔をあまり見れていなかった。
普段なら何かと、妹のほうが兄にちょっかいを出しに行くので、大体毎日 顔を見れていたのだ。
(お兄ちゃん、ヴィヴィに会いに来てくれたんだ……)
思わず、小さな顔がにんまりしてしまう。
「お兄ちゃん、ヴィヴィに会いたかったんだ?」
思ったままを口にしたヴィヴィだったが、あまりにもあっさりと切られてしまった。
「いや、ヴィヴィだけじゃなく、これからクリスにも会いに――」
匠海が言い終わらぬ前に、ヴィヴィは兄に駆け寄り、飛びつきそうな勢いで首に縋り付く。
「照れない、照れない♡」
全く聞く耳を持たないヴィヴィに、匠海は軽く嘆息すると、妹の腕を解いて隣に座らせた。
「風邪はもう、大丈夫なんだな?」
ほんのりピンク色の頬に、大きな掌を添えられ、顔を覗き込まれれば。
ヴィヴィはくすぐったそうに、少し身を捩った。
「うん、すぐ治ったよ。それよりシャンプー変えたの! この香り、お兄ちゃん好き?」
ヴィヴィは乾かしたばかりの髪を指さし、兄に意見を求める。
「どれ……」
上半身を倒して、隣のヴィヴィに匠海が近づく。
後頭部に大きな掌が添えられ、軽く引き寄せられた瞬間、
トクリ。
薄い胸が小さく疼いた。
(……………?)
「……うん、爽やかで夏にぴったりの、いい香り」
己の訳の分からない反応に、ヴィヴィは内心首を傾げいていたが、
匠海の返事で、すぐにその疑問を頭から追い出した。
「好き?」
「そうだね」
「もう〜っ、好きって言って?」
「はいはい、好き好き」
駄々を捏ねる様に言い募る妹に、兄は幼児にする様にポンポンと、その金色の頭を叩いた。
「じゃあ顔も見れたし、ヴィヴィもそろそろ寝なさい」
匠海にそう促され、ヴィヴィは時計を確認する。
「あ、そうだ! カレンに借りた本、明日には返さなくちゃ」
確かあと一冊だけ、コミックが残っていた筈。
「カレンちゃん? 何借りたの?」
久しぶりに聞く妹の親友の名前に、興味をひかれた匠海が尋ねてくる。
「えっとね――。……内緒」
もう少しで、口から本の内容が零れそうになるも。
カレンにものすごい勢いで、口止めされていたことを思い出し、ヴィヴィは言葉を濁した。
珍しい妹の態度に、兄が更にに興味を持ったらしく。
「何? 気になる」
譲らない匠海にヴィヴィは内心焦ったが、だがすぐに名案を思い付き提案してみた。
「んっとね〜……、じゃあ、お兄ちゃんがヴィヴィの唇にチュウしてくれたら、教えてあげてもいいよ?」
「―――っ ヴィヴィ……どこの世界に、妹の唇を奪う兄がいるんだ?」
何も塗らなくても艶々した唇を、可愛く尖らせているヴィヴィの戯言(ざれごと)に、匠海はぐったりと脱力した。
「唇にチュウするのも、ダメなの?」
(兄妹でセックスはしちゃ駄目だって、知ってるけれど――)
それくらいのスキンシップは、許されたっていいのでは? っとヴィヴィは心の中で思う。
「駄目――。絶対、駄目っ!」
頑として譲らない匠海に、ヴィヴィは肩を竦めた。
このまま妹の部屋にいたら、また何を言い出されるか分からないと悟ったのか。
兄はさっと立ち上がり、妹のリビングを通り、右側に位置するクリスの私室への扉を開き、行ってしまった。
「ちぇ〜……」
ヴィヴィは少年のようにそう呟き。
仕様が無く、デスクからまだ読んでいないコミックを取り出し、寝室へと移動した。