6章-1
翌日の朝。
「がぜびぎばぢだ……」
いつもの様に朝練を終え、BSTに登校したヴィヴィは、
クラスルームでカレンに会った途端、虚ろな瞳で呪文を唱えた。
「What……?(何?)」
日本語があまり得意でないカレンは、ヴィヴィの呪文――もとい濁点だらけの日本語が聞き取れなかったらしく、
「……I have a cold. ……風邪、ひきましたって……」
クリスが通訳をかって出た。
「OMG……だからマスクしてるのね。日本人はマスク、好きよね?」
小さなヴィヴィの顔が、大きなマスクでほとんど覆われているのを見て、
カレンは少し笑ったが、すぐに心配そうな顔になった。
「けど、なんで7月に風邪なんかひいちゃったの?」
「……え゛っど……」
喉が痛いのか、話し辛そうなヴィヴィに変わり、クリスが説明するところによると。
昨夜(クリスは知らないが、匠海にキスして有頂天になっていた)ヴィヴィは長湯をし、
そしてハードな練習の為に、浴槽で睡魔に襲われてそのまま眠ってしまった。
運悪く保温設定にしておらず、湯はどんどん冷めていき、
2時間ほど爆睡していたヴィヴィは、ひくべくして風邪をひいてしまった。
「風邪引いたのがオフシーズンで、良かったわね」
「ヴン……ぶしゅっ」
あまり乙女らしからぬ くしゃみをしたヴィヴィは、クリスからボックスティシュを受け取り。
マスクを外すと、チーンという音を立てて鼻をかむ。
いつもは白い鼻の頭は、今や鼻をかみすぎて赤くなっていて。
それを見ていたクラスメートの何人かが、「可愛い、鼻真っ赤!」とからかった。
人の不幸を笑う友人達を、小脇にボックスティシュを挟んだヴィヴィは、じと目で見つめたが、すぐにマスクを装着し。
そんな妹の頭を、クリスが「よしよし」と撫で慰めていた。
「クリス、風邪うつるから、触っちゃダメ」
感染したら大変だと、ヴィヴィは注意を促したが、
クリスは妹の背中を自分の胸に抱きこみ、余計にくっついてきて。
「僕にうつしたら、早く治るかも……」
「いや、それ迷信だから」
あり得ないほど美しい兄妹愛発言をしたクリスに、カレンはすかさず突っ込み。
チャイムが鳴り、担任がクラスルームに現れたのを期に、皆自分の席へと戻って行った。
(ま……まずい……しんどいぞ……)
1限目の(英国の)歴史は睡魔に襲われながらも、何とか受けていたヴィヴィだったが、
2限目の数学になると、頭がくらくらしてきた。
視点も定まらなくなり、テキストの数字が二重に見えるが、手の甲で目を擦って公式を睨み付ける。
(ええと……座標平面上の点(x,y)が次の方程式を満たす。このとき、xのとりうる最大の値を求めよ――か。2x(2)+4xy+3y(2)+4x+5y-4……あれ、+2x(2)+4xy+3y(2)+4x+5y+2x(2)……ていうか、なんでこんなに公式、長いのさ――)
→→→(2)は二乗と読んで下さい by 作者
そう突っ込んだ瞬間、ゴツンと大きな音がして、頭に激痛が走った。
「い゛、だい゛……」
両手でテキストを開いたまま、机におでこをしたたかぶつけたヴィヴィは、突っ伏したまま情けない声を上げる。
身体を起こしたいのに、何故か力が入らなくて。
隣でガタガタと椅子を引く音がしたと思うと、ヴィヴィは肩を抱き上げられた。
誰だろうと重い目蓋を開くと、クリスが心配そうな顔で、妹のおでこに大きな掌を当てていた。
「ケインズ先生。ヴィヴィ熱があるので、保健室に連れて行ってきます」
いつも言葉少ないクリスが、しっかりとした声で教師にそう発したのと、
カレンの「私も! 付いて行きます」と、焦った言葉が聞こえた。
「ああ。頼む、気を付けてな」
担任のその返事に、クラスメートが一斉に喋りだし騒がしくなった。
そんな中、クリスはひょいとヴィヴィを抱き上げると、カレンが開けたドアを通って廊下へ出て行く。
発言通り、保健室へと向かうのだろう。
頭がぼうとして、思考がうまく纏まらない。
けれど、自分と一緒で「背は高いけれどひょろひょろ」と思っていたクリスの腕の中は、意外や意外、逞しいという事だけは感じられて。
やはり男と女では、身体の作りが違うのだろう。
そして発熱し始めたヴィヴィには何よりも、触れているクリスの暖かさが染み入り、
その事が何故か、途轍もない安心感を与えてくれた。
「ごめん……面どう……」
面倒かけて――と続けようとしたヴィヴィだったが、
ホッとしたのか、そのまま眠るように意識を失った。