1章-3
ところ変わって、松濤の篠宮(しのみや)邸の一室――。
「ほら、もうちょっとだから、ヴィヴィ……。頑張って」
「え〜〜、もう、やだぁ〜……」
ヴィヴィは学校では絶対に上げない様な、情けない声を出す。
「やだじゃない、ちゃんと座って。後、3ページだけだから……」
飴色に輝くテーブルに突っ伏したヴィヴィに、根気強く声を掛けている彼女の兄――匠海(たくみ)は、
妹の金色の頭を丸めたテキストでポスポスと叩く。
「……むぅ……頑張ったら、チュウ、してくれる……?」
ほんの少しだけ頭を起こしたヴィヴィは、180cmを優に超える長身の匠海を仰ぎ見る。
その薄い唇は可愛らしく、つんと尖っていた。
「はぁ……分かったから、ちゃんと座って?」
我が儘を言う妹に脱力した匠海はそれでも、しょうがないという風情でヴィヴィを励ます。
「ハグもよっ! ハグもつけてくれる?」
がばっと上半身を起こしたヴィヴィは、嬉々とした表情で兄に詰め寄る。
「ああ、だからちゃんとやりなさい」
「うんっ!」
13歳の少女にしてはやたら素直な返事をし、ヴィヴィは目の前の物理のテキストに取り組んだ。
その数分後、
「ほら、出来たよ!」
ヴィヴィはそう言って顔を上げた。
胸まである長い金の髪が、さらりと音を立てて流れる。
「じゃあチェックするから、ま――っ、ちょ、こら、ヴィヴィっ!?」
待てと言う匠海を無視し、ヴィヴィは椅子を引いて立ち上がり、目の前の兄の胸に飛び込んだ。
160cmのヴィヴィは、背伸びをして匠海の首に縋り付く。
「お兄ちゃん、Love You〜〜!!」
幼女のような甘ったるい声を出し、じゃれ付いて来る妹を抱き留めると、匠海は観念したように近くのカウチに腰を下ろした。
ヴィヴィは兄の股の間に、器用にその細い体を滑り込ませると、兄の長い右足に背を預け、広い胸に凭れ掛かる。
匠海と2人きりの時だけの、ヴィヴィの定位置。
物心ついた時からお兄ちゃん子のヴィヴィは、匠海の腕の中が一番落ち着いて、安らいで大好きだった。
一方、もう大学2回生で19歳の匠海のは、何度か妹本人に兄離れをするよう求めたが、
やはりと言うかなんと言うか、ヴィヴィは全く聞く耳を持たず今に至っている。
「お兄ちゃん、約束のチュウは?」
「ごろにゃん」という効果音が似合う仕草で、妹は兄に縋り付くと、上目使いで見上げる。
「はぁ……」
匠海はこれ見よがしに大きな溜め息を付くと、ヴィヴィを見下ろし、
困惑の表情のまま、少し屈んで妹の額にキスを落とした。
柔らかな唇の感触を肌に感じ、ヴィヴィはくすぐったそうに、大きな灰色の瞳を細めた。
(うふふ〜、気持ちい〜)
やがて唇を離した兄に「今度はヴィヴィが、チュウしてあげようか?」とからかおうとした時、
ピピピピピ。
ヴィヴィのポケットに入っていた、スマートフォンが鳴る。
「あ、そうだった」
妹はスマホを取り出すと、兄から少し身体を離し、テーブルからテレビのリモコンを取り上げた。
「あれ、電話じゃないのか?」
不思議そうに聞いてくる兄に、着信音ではなくてアラーム音だと伝え、テレビの電源を入れる。
50インチの画面に映し出されたのは
『ISUジュニアグランプリ ファイナル2016 女子・男子シングル特集』
「あっ」と呟いた匠海の声を背に聞きながら、ヴィヴィはテレビの音声に耳を傾ける。
『先週、フランス・ニースにて行われました、ジュニアグランプリ ファイナル。
なんと、男子・女子シングルとも、日本の選手が金メダルを獲得するという快挙を成し遂げました!
先週の深夜に放送したところ、視聴者の方からの反響がとても大きく、今日はその2人の小さな金メダリストを取り上げます』
女子アナがすらすらと原稿を読み上げると、画面が切り替わり、リンク上のヴィヴィが映し出された。
Jumping Jack の演奏に乗せ、鮮やかなピンクのリボンが付いた黒衣装を纏ったヴィヴィが、
出だしで軽やかにトリプルアクセルを決めた。
その高さと迫力に、観客がわっと歓声を上げる。
『ヴィクトリア篠宮さんは、日本とイギリスのハーフの父と、イギリス人の母を持つクウォーターの13歳。
日本国籍と英国国籍を持ち、日本スケート連盟に所属しています。
長い手足と柔軟性を生かした演技が特徴的ですが、やはりなんと言っても注目すべきはそのジャンプ力――
あの浅田真緒選手以来、公式戦でトリプルアクセルを決めた唯一の女子選手で、浅田二世との呼び声も高い、前途有望な選手です。
そして――』