27章-1
「――せんせい……美冬先生?」
隣りで拓斗が美冬のことを連呼していた。
はっと我に返った美冬は、瞳を瞬く。
「先生大丈夫? すっごいボーっとしてたよ」
拓斗はそう言って白い歯を見せて笑う。
いつの間にか物思いに耽っていたようだ。
美冬は眉をハの字にして拓斗に謝る。
「あ、ごめんね。問題解けた?」
「まだ」
「自信満々に『まだ』って言わないで」
くすりと笑った美冬に、拓斗も笑う。
シャーペンを手の中で弄んでいた拓斗が口を開く。
「美冬先生ってホントに二十歳?」
「うん。どうして?」
今更ながらの質問に、美冬が尋ねる。
「だって俺の同級の女より、先生のが童顔――わ、殴るな!」
高校三年の拓斗に童顔と言われ、美冬は握りしめた小さな拳を振りかざす。
「童顔で悪かったわね。これでも大学2回生なの!」
こつりと拓斗のおでこを叩くと、彼はなぜか嬉しそうな顔をした。
「?」
首を傾げた美冬に、拓斗も真似て同じ方に首を傾げる。
「可愛いなあ、俺と付き合って?」
「教え子と付き合えるわけないでしょ? ほら問題を解く!」
そう言って困った顔をした美冬に、拓斗は唇を尖らせる。
「ええ〜、もう何度も口説いてるのに、全然信じてくれないのな」
その言葉に美冬の頬が少し赤くなる。
「あ、赤くなった。さすが男に免疫のない女子高出身」
そうからかってきた拓斗を美冬が睨む。
「もう、勉強しないなら帰るよ?」
「えっ? ごめん、べんきょするって!」
やっと目の前の問題と向き合ってくれた拓斗に、美冬は胸をなで下ろした。
なんとか今日の分を終わり、美冬は次回までの宿題をメモにして渡すと席を立った。
玄関まで後ろを付いてくる拓斗が、「ね〜デートしよ?」とお願いしてくる。
美冬は玄関で靴を履くと、拓斗に向き直った。
「先生、年上が好きなの。拓斗君が私より大人になってくれたら、付き合ってもいいよ?」
ふわりと笑ってそう言い残し去っていく美冬に、
「そんなのいつまでたっても年、追いつかね〜じゃんっ!」
と吠える拓斗の声が後ろから追っかけてきたが、美冬はくすりと笑ってそのまま大通りに向けて歩き出す。
12月の夕方の寒い空気にマフラーを巻きなおす。
やはり東京は鹿児島に比べ寒いなあと、美冬は昔を懐かしんで首を竦める。
拓斗は今年の春から家庭教師をしている生徒の一人だ。
他にも生徒は3人いるが、彼が一番元気で一番受験に対して危機感が薄い。
しかし出来の悪い子ほど可愛いものだ。
(でもそろそろ本気になってくれないと、B判定だからな〜)
どうやる気を出させようかと思いながら地下鉄に乗る。
大学前で下車すると、法学部のゼミ室へと足を向ける。
何人か残っていた生徒達と談笑し、出されていた課題の資料を集めるとゼミ室から出た。
日が陰りキャンパスにいる生徒達はまばらだった。
広いキャンパスを抜け、校門へ辿り着く。
「………」
美冬はそこで立ち止まり、少し俯いた。
鹿児島の高校に通っているときから、校門という場所が嫌いだった。
どうしても校門(ここ)で一度、立ち止まってしまう。
それは念願だった大学に進学してからも変わらない。
勝手に期待して、勝手に裏切られたとひとり落ち込むことを何年も繰り返した場所。
高校を卒業した美冬は姓を鈴木に戻し、東京の大学に進学した。
大学に上がってから、ずっと続いていた高柳の手紙は途絶えた。
今年で2回生になり、夏に二十歳にもなった。
「………」
(もう、そろそろいいんじゃない?)
自分に自分で問いかける。
(いつまでこんなことを続けるつもりなの?)
問いかけに答える自分はいない。
(あの人はもう、来ないのに――)
びゅうという音を立て、長い黒髪を北風が凪いでいく。
「……信じてる」
いつもの呪文が自然と口から零れる。
これもついてしまった長年のくせ。
もうあの人を思って涙が零れることはない。
あの日――二十歳の誕生日に全て流しつくしてしまったから。
「信じてる――」
それはもう嘘。
本当はもう、信じていない。
あの人も、自分も。
もうそんなことをいつまでもくよくよと考えている場合じゃない。
これからのことを考え、美冬は強く目を瞑った。
「………」
大きく一つ深呼吸すると、美冬は瞼を上げた。
風に背中を押されるように美冬は一歩を踏み出した。