4章-1
鏡哉のキス攻撃は一か月を経っても治まる様子がなかった。
唯一の救いは、ファーストキスはまだ奪われていないことだった。
「はあ〜〜〜」
美冬はマンションの高級スーパーで買い物をしながら、ついつい大きく嘆息してしまう。
「ぷ、大きなため息」
ふいに後ろからそう声を掛けられ、美冬はびっくりして後ろを振り向く。
「高柳さん! お久しぶりです」
「久しぶり、美冬ちゃん」
そこに立っていたのは鏡哉の秘書の高柳だった。
鏡哉と同じく180センチはある高柳は、上から覗き込むように美冬に尋ねる。
「ため息の原因は、社長?」
「え、ええまあ……」
「今度は何されたの?」
(う……さすがに高柳さんに「キスされて困っている」とは言えない)
美冬はしょうがなく笑ってごまかす。
「どうせ社長の我儘につき合わされて困ってるんでしょ? 嫌なことされてるなら、嫌ってびしっと言わないとダメだよ」
「は、はあ」
(嫌……かあ。そこまで嫌なわけじゃないんだよねえ、困ったことに)
「鏡哉さんが普通の家政婦として私と接してくだされば、問題はないのですが」
そうだ。普通の雇い主は家政婦にキスしたりしない。
「ああ、それは無理だよ」
「え?」
「だって、社長は美冬ちゃんにぞっこんだからね」
「ぞ、ぞっこん――」
『子犬の飼い主』としたら確かにぞっこんなのかもしれない。
「あ、そういえば高柳さん、どうしてここに?」
「ああそうだった。今日社長、急に会合が入っちゃって。悪いけれどこれから借りていくよって美冬ちゃんに言いに来たんだ。美冬ちゃん、携帯持ってないでしょ?」
「はい。あ、では夕食いらないんですね」
「うん、一人にしちゃって悪いけれど、なるべく早く帰すから」
高柳は少し申し訳なさそうな顔でそういう。
「滅相もありません。仕事を優先してください」
「はは、社長。美冬ちゃんと夕食食べる気だったから、ちょっと今ご機嫌斜めでさ。美冬ちゃんキスの一つでもしてやってくれない?」
「もう、高柳さんまで私をからかって!」
高柳は美冬をからかうと、買い物袋を美冬から取り上げて、一緒に部屋へと戻った。
鏡哉はリビングでぶすっと機嫌悪そうに座り込んでいた。
「鏡哉さん、チャコールグレーのスーツ、出しときますね」
美冬は気にせず鏡哉のウォーキングクローゼットの中に入り、てきぱきと着替えの用意をしていく。
すると観念したのか鏡哉もウォーキングクローゼットの中に入ってきた。
とても広いのでこの中で着替えることができるのだ。
鏡哉は憮然としながら着ていた薄手のニットを脱ぎ、上半身裸になる。
美冬はなるべく見ないように目を伏せて、鏡哉に選んだドレスシャツを渡す。
「着せて」
頭上から降ってきた言葉に、美冬は思わず顔を上げる。
すると適度に筋肉の付いた鏡哉の胸が目の前にあり、一気に体温が上昇した。
「な、何言ってるんですか!」
「……着せてくれないと、行かない」
「ええっ!?」
(我儘大王ですか、あなたはっ!!)
「バ、バカなこと言ってないで、早く着てくださいぃ!」
「本気だって。いいの? このままじゃこの部屋から出してあげないし、高柳も時間が迫って困ると思うんだけど」
鏡哉はそんな勝手な言い分で、美冬にシャツを押し付ける。
(むちゃくちゃだ、この人!)
しかし言い出したら引かない鏡哉の我の強さを知っている美冬は、早々に降参してなるべく目を伏せながらシャツを鏡哉の腕に通し始めた。
「ほ、ほらボタン留めますから、上向いててください」
鏡哉が美冬を食い入るように見つめているので、着せにくい。
「ん」
言われた通り鏡哉は顎を上げたので、上からボタンを留めていく。
緊張で指先が震えてなかなか留まらない。
「ふ、可愛い、美冬ちゃん」
「もう! 黙っててください!」
なんとかボタンを留め終えて、ネクタイを結ぼうとする。しかし――。
「ああ、やり方わからないか」
鏡哉はそう言うと楽しそうに美冬の両手をとってネクタイの結び方を教えていく。
(もう、自分で結べばいいのに……)
やっとネクタイから解放されて、棚からスラックスを取り鏡哉に手渡す。
さすがに下は無理だと判断した鏡哉が、後ろを向いた美冬の前で着替えた。
衣擦れの音と、かちゃかちゃというベルトの音が部屋に響く。
(ああ、何やってるの、私ったらこんなところで)