ハードル-7
階下に降りると、千尋の祖父の武弘はこちらに背を向ける格好でソファーに座っていた。
近付いても、長時間そうし続けていたように、身動ぎもしなかった。多分、想像の通りこのままの状態で座っていたのだろう。
オレはその全てを拒絶するような背中に声を掛けた。
「今日は突然お邪魔して失礼しました。また、伺わせて下さい」
それに対する答えは、今まで通りの沈黙、そして拒絶だった。
「あなた、いい加減にして下さい」
また、知津子が声を荒げた。オレはそれを手で制すと、深々と背中に向かって頭を下げた。千尋もオレに倣った。
「失礼しました」
最後に声を掛けてから、武弘に背を向けて玄関へと足を進めた。
その時、思いもしなかったことが起こった。
「佐々木さん…」
思い詰めたような武弘の声に、慌てて振り替えった。しかし、その武弘は背中を向けたままだった。それでもオレは気にせずにその背中に応えた。
「はい」
しばらく沈黙が続いたが、我慢して待った。武弘の頭の中で蠢く16年間の葛藤、それを整理する時間だと思えばいつまでも待てた。しかし、それはそんなに時を要しなかった。
「佐々木さん、1つ聞いていいか」
その思いの外静かな問いに、オレは素直に返事をした。
「はい」
「知子は…、千尋と過ごした知子の13年間は…、果たして幸せだっただろうか」
オレはそれに即答はせず、改めて知子と千尋の過ごした13年間を思い返した。
さっきのアルバムの写真の一場面一場面が脳裏を過る。もちろん全部の場面を共に過ごしたわけではないが、一家の団欒に加わった時など、千尋が引っ張り出したそれらの写真を見ながらワイワイと過ごしたものだ。
オレはその時の知子の顔を思い浮かべた。
「知子は…、知子さんはいつも笑ってました」
オレはそれが一番知子らしいと思えることを自信を持って答えた。
「そうか…、笑って…、夢の通り…」
今まで伸びていた武弘の背筋が一気に弛んだ。
「佐々木さん…」
武弘が震える背中で、もう一度オレを呼んだ。
「はい」
オレは武弘の背中に向かって力強く応えた。
「知子の子供を…、千尋のことを…」
オレはグッと拳を握り締めて武弘の言葉を待った。その拳に千尋が震える手を重ねた。
「よろしく頼みます…」
言葉を吐き出した武弘の頭がガックリと落ち、背中向きではあったが深く頭を下げた。
「おじいちゃん!」
また、泣き出した千尋が、さっきまで頑なだった背中に抱き付いた。
ビクッと身を震わせた千尋の祖父は、振り返ることは無かったが、背中をブルブル震わせながら、千尋の包容をただ黙って受け入れていた。
知津子もオレの隣で嗚咽を堪えていた。
全部のハードルを越えたオレは、ギュッと目を閉じた。そのオレの耳元に、ここ数日で慣れ親しんだ声が聞こえた。
(ありがとう)
いいえ、どういたしまして。
妄想に応えるのも慣れっこになっていた。