波乱の高円寺-2
「えっ、今から? だめだよ。お客さん来ているから」
(誰だろう……)
「今から二人でコーヒーを飲みに行くんだ」
紀夫の声のトーンから親しい人だとわかった。電話の相手は女性?
通話を終えた紀夫はベッドルームに戻ってきた。
「同僚が近くまで来たので、うちに顔出ししたいと言ってきた。もちろん断ったよ」
「いいんですか?」
「いいんだよ」
マンションのエントランスを出ると、頬に当たる風が冷たかった。紀夫と手を繋ぎたいとふいに思った。紀夫は、レイの歩調に合わせてくれていたが、ぴったり寄り添ってはくれない。
「レイちゃん、高校でも新体操やっているんだよね?」
「ええ。都の秋季大会では上位になりました」
「それはおめでとう」
紀夫は自分のことのように喜んでくれた。
「渡部さん、訊いていいですか?」
「えっ?」
「渡部さんは、中学時代の私をどんなふうに見ていたの?」
しばし沈黙があった。
「抱きしめたいと思った……」
「えっ?」
「レオタードを着て、リボンを舞わせているポニーテールのレイちゃんを見ていて、僕は欲情していた……。とんでもない教師だ」
同じ歩幅で歩いている紀夫の横顔をチラッと見た。彫りの深い顔を紅潮させていた。
(照れている……。正直な人だ)
中学時代からレイを女として意識してくれていた。嬉しかったが、その嬉しさを言葉にすることはできなかった。自分から手を繋ぎにいけたら良いのになあと思った。
歩いてくる女性の赤いストッキングが目に入った。鮮やかな赤だ。女性はすっと左に寄り、紀夫と向き合うかたちになった。歩みを止める女性。前髪が眉毛のところで左に少し流れているミディアムヘア。小顔に似合っていた。見覚えがある人だ。
「渡部さん、こんにちは」
「こんにちは……」
レイは、渡部の顔を覗き込む。強張っていた。女性は微笑んでいたが、無理してつくったような笑顔だった。
(早瀬先生だ……)
ネイビーのブラウスに白地に青い花柄スカート。ストッキングは赤。高田中学のときの印象とは違って、華やかさがあった。早瀬は、レイと視線を合わせてきた。
「さっき渡部さんと電話で話しました。お客さんはあなただったのね……。私のこと、覚えてる?」
「はい。音楽の早瀬先生。お久しぶりです……」
「はい。お久しぶり。早瀬久美子です。新体操のホープ、三原さんですよね?」
「三原レイです。ホープって言われると、なんだか……」
「なんだか?」
「なんだか、恥ずかしいです」
「照れなくていいのよ。あなたは中学のときから注目されていた。誇りに思って」
「はい……」
「渡部さん」
「はい?」
「歩いてくるおふたりを見て、お似合いだと思いました」
「いや、その、偶然に会って、たまたま部屋で話しただけです」
紀夫は明らかに動揺していた。
「そうなの……。そんなふうには思えないけど……」
「早瀬さん、何が言いたいのですか?」
紀夫の声は苛立っていた。
「べつに……。今言いたいことはないです。あなたと食べようと思って買ったイチゴショートケーキ、生クリームが溶けないうちに召し上がって」
「今から喫茶店に行くんだ。ケーキをもらっても……」
紀夫は困惑していた。
「いいじゃないの。生クリームが溶けるまでには帰るでしょう?」
早瀬久美子は、ケーキの箱が入った包みを強引に渡して、「じゃあ、また」と、顎を少し引いて会釈して、そして足早に去っていった。
「困った人だ……」
紀夫は歩きながらつぶやいた。
レイの心には先ほどから霞のようなものがかかり始めていた。芽生えてきた不信を正直に話したほうがいいのだろうか。迷った。陽ざしはあるが北風が頬に冷たかった。