1章-2
ドンッ――。
車のボンネットに何かが当たる衝撃。
鏡哉(きょうや)ははっとして、左を確認していた視線をその音がした方向に向けた。
左ハンドルの車の右側、助手席側のボンネットにその『何か』が乗っている。
今は冬の18時過ぎ。辺りは既に闇に包まれ、鏡哉はすぐにはそれの正体を掴みきれない。
ギヤをパーキングに入れサイドブレーキを引き車外へでると、ようやくそれが人間であることに気付いた。
恐ろしいことに、その人間はぴくとも動かず、上半身をボンネットの上に突っ伏している。
(冗談だろ――、こっちは停車していただけだぞ……)
内心頭を抱えて、鏡哉はその人物に近づいた。
「……………」
(女子中学生……?)
赤い色のダッフルコートを着たその人間はとても小柄で、スカートから伸びた足は折れるのじゃないかと心配になるくらい細い。
「君、大丈夫かい……?」
万が一頭を打っていたらいけないと思い、華奢な肩に手を置いて小さく揺さぶる。
「……………」
少女は身じろぎもせずボンネットに突っ伏したままだ。
(どうしようか。取りあえず病院にでも運ぶか?)
少女を前に腕組みをして考え込んでしまった鏡哉の後ろから、コツコツと革靴の足音が聞こえる。
振り向くと鏡哉のマンションのドアマンが、心配そうにこちらへと歩み寄ってきていた。
「新堂様、そのお方はお知り合いですか?」
いつも顔を合わせると挨拶くらいしかしない間柄だが、そのドアマンのことは見知っていた。
「いいや。気づいたら、こうだ……」
「実は私、一部始終を拝見していたのですが、このお嬢様はふらふら歩いていらしてご自分から新堂様のお車にぶつかられたようです」
「そうか。じゃあ打撲はなさそうかな」
自分の過失ではないとほっと胸を撫で下ろした鏡哉は、もう一度少女に向き直りその顔を覗き込む。
すると先ほどは気づかなかったが、すーすーと規則正しい寝息が聞こえてきた。
「……寝ているようだ」
「お嬢様、お嬢様!起きてください」
お仕着せを着たドアマンが少女の両肩を軽く掴んで揺さぶったが、少女は一向に起きる気配がない。
「新堂様、私どもでお預かりいたしましょうか?」
そう伺いを立ててきたドアマンに、鏡哉は頷こうとした。その時――、
ぽろり。
少女の瞼から一筋の涙が零れた。
「……………」
つきん。
鏡哉の胸が何故か痛んだ。
そして気づくと少女をその腕の中に抱き上げていた。
「新堂様――?」
驚いた表情のドアマンを促し、助手席のドアを開かせる。
そして驚くほど軽い少女をその助手席に乗せた。
「……寝てるだけなら、うちで面倒をみる。起きたら事情を聴いて彼女を送り届けるよ」
「は、はい。では何かありましたら、コンシェルジュにご連絡下さい。この件は伝えておきますので――」
ドアマンはそう言うと一歩下がって、鏡哉が車を発進させて出てきたばかりの地下駐車場を引き返すのを見守っていた。
それから12時間――。
日付が変わり朝になっても、少女は死んだように眠りこけていた。
鏡哉は5LDKの一室のベッドに少女を運び込んでから、ずっと自分の行動に疑問を覚えていた。
(何故、こんな見も知らずの少女の面倒を見ようとしてしまったのだろう――?)
冷静沈着、言い換えれば仕事にしか興味のない冷徹男。
それが周りからの鏡哉の評価だ。
本人もそれを自覚している。
なのに少女の涙一つで動揺し、普段家政婦以外には立ち入らせない自宅に招き入れてしまった。
これから得意先の接待が入っていたのにもかかわらず。
といってもこちらは接待を受ける側だったので、鏡哉は秘書に連絡し副社長に代わりを頼んでしまったが。
そして先ほど、午後から出社すると連絡を入れたばかりだ。
午後からはどうしても抜けられない商談が一つ入っていた。
(どうかしている。この私がこんな少女一人のために仕事を投げ出すなんて……)
そう自嘲しながらも、さすがに12時間も目を覚まさない少女に鏡哉の中の不安が膨らみ始めてきた。
「おい、君」
肩を揺すってそう声を掛けてみるが、以外にも返ってきた答えはぐ〜という腹の虫だった。
「………ぷっ」
鏡哉は静かな寝室で一人吹き出してしまう。
ひとしきり忍び笑いをしてずれた銀縁の眼鏡を指先で元に戻すと、静かに部屋を出た。