あの空遥かに-1
「直樹、今日ツムギ屋行かね?」
「いいね」
僕は隼人の提案に頷いた。
ツムギ屋とは僕らがよく行く、大学のすぐ、前の学生食堂だ。
量は多く、値段は安く、店内はいつも雑然としている。
僕らは二人、平らなお腹を擦りながら入り口の扉を開けた。
油まみれの店内の床の上を歩く。一番奥の窓際の席は僕らが座るのを待っているように空いていた。
愛想の悪いオバちゃんが水の入ったグラスを二つ、力強い腕で置いていく。
僕らは厨房に聞こえるくらいの大きな声で日替わりを二つ頼むと、他愛のない話をする。その多くは教授とゼミ生の噂話だ。
外はまだ7時だと言うのに、明るい。紫色の空をカラスが大群でどこかに飛んでいく。
その遥か上空を小さな光を灯しながら、ジェット機がゆっくりと通り抜けていく。
店の窓から見える風景は、酷くゆっくりだ。何もかも終り家路に帰る人の顔は、弛緩していて、不幸なんて微塵も読み取れない。
向かいの歩道を花柄のワンピースを着た女が歩いていた。隣の研究室の子で、挨拶をする程度の仲だ。
この間知った彼女の名前は山本由佳里というらしい。
そこそこ綺麗で、そこそこ頭も良く、そこそこ性格も良くて、そこそこお上品で。
長い髪と、ややふっくらした体つきと、目鼻立ちの猫みたいな感じが僕の好みだった。
僕はぼおっと彼女を眺めていた。彼女は細い足で人ごみを器用に縫って歩く。
真直ぐな背筋が余計に彼女を美しいものに見せている。あの姿は既に僕の網膜にまで焼き付いている。
にやけ顔で隼人の方に視線を戻したら、彼は呆れ顔で僕を見ていた。
隼人と話が盛り上がり長居をしたせいで、ツムギ屋のオバさんから急かされるように外に出された。
空は黒いビロードの布で覆い隠されたようで、大学の正門の校名の看板を灯す電気は消えていた。
自転車に乗った隼人と角の車屋で別れた後、腕にはめた時計を見た。九時三十分がいつのまにか三十七分になっている。
やべえなあと思った。見たいテレビがあった。いつもの道を通ってたら間に合わない。ショートカットと唇だけ動かして、ホテル街への入り組んだ道に足を向ける。
知り合いには会いませんように。と呟きながら早足で駆ける。
昔、店から出てきた友達と遭遇し、気まずい思いをしたことがある。