あの空遥かに-2
でも心配したことはやっぱり起こるものだ。僕の目はあるホテルの入り口に張り付いた。ヤバイと思い足を止める。
あの後ろ姿は絶対に間違えない。山本由佳里だ。なで肩気味なところとか、足首の細さとか、絶対にそうだ。
僕の心臓は止まりそうだ。
山本が店内を振り返ると、長い黒髪が揺れた。真直ぐな絹糸のような髪。艶やかな黒髪。
店内から続く階段を山本の足はしっかりと踏みしめ、その後グレーのスーツの足が彼女を追いかけるのを見た。
男の左手の薬指には銀の指輪が嵌っている。
短く刈った髪は、散髪したばかりだ。
チラリと見えたボルドーのネクタイは隼人と一緒にあいつの助教授昇進祝いに見繕ったものだ。
チタンフレームの眼鏡はいつだってあいつが、センスがいいと評判のあの優しそうな奥さんに選んでもらったのだと自慢していたものだ。
今日だってあいつと仲良く並んでシャーレを洗った。洗いながら実験の失敗の悔しさを語って聞かせたら、あいつはバカ丁寧にその失敗を分析し、僕を励ましてくれた。
進まない論文も、イザコザの多い人間関係への愚痴も、あいつはいつだってふざけた口調にそぐわぬ広い懐を以って、受け止めている。
帰る前には研究室の掃除当番のことについて、隼人や他のゼミ生とあいつと谷口教授とで、散々口論して来たばかりなのだ。
山本があいつの大きな手を取った。
男の僕だって惚れ惚れするような、頼りがいのある骨太の手だ。
「……先生」
山本の熱を含んだ声が聞こえてきた。
脳味噌の奥がチリチリと焼けている。あの声が僕に向けられるのを、夢見ていたのに。
「まだ、一緒にいたい」
聞こえてくる山本の声は涙を含んでいるように聞こえる。
耳を塞ぎたくなった。
「送っていく」
あいつの静かな声を始めて聞いたと思った。
無駄にテンションばかりが高い、あの助教授の声が、全く違う声音に上書きされていく。
山本が小さな声であいつに何かを囁く。
あいつが山本の唇を掠め取っていくのを、僕は開いた瞳孔で見つめていた。
僕の心が痛い痛いと、悲鳴を上げている。
空をゴウゴウという唸り声を吐き出しながら、低空飛行の飛行機が駆け抜けていった。
僕の真っ赤になった目は狭い部屋の木目だらけの天井を見つめていた。