Limelight-8
「え? いや、何って‥‥」
俺は左の頬を押さえたままだ。
「みんなあたしのこと見てたじゃない! どうしてあたしがあんなに必死で逃げ帰らなきゃいけないのよ!」
「いや、普通あれだけじゃわからんだろ‥‥?」
俺が言っているのは最後に三塁側を指差したこと。そう、あのスタンドには女性など亜希のほかにもたくさんいたはずだ。それなのに彼女だと特定できる要素など‥‥。
──まさか。
俺はおもむろに彼女の右腕を掴んだ。そしてそっとそのカーディガンの袖に手を触れて、納得する。墓穴を掘ったな、と一人心の中でほくそ笑む。
「‥‥泣き虫」
俺は笑いをこらえることが出来なかった。彼女は爆発的に頬を赤く染める。
「そりゃ、泣いてりゃわかるわ。何で泣いてた? ん?」
「う、うるさいっ!」
濡れた袖を背中の後ろに隠しながら、亜希が俺を睨む。しかし真っ赤な顔のせいで全く迫力がない。いつもクールな彼女からは全く想像も出来ない姿。
「‥‥子どもは?」
スクリュードライバーをあおり、俺は話題を変えた。
そう、俺が渡したチケットのうち一枚は子ども用。俺はどうしても彼女だけでなく、彼女の子どもに俺の試合を見に来てほしかったから。
「‥‥家に置いて来た。たぶんお母さんが寝かせてると思う」
まだ頬が赤い彼女は、照れ隠しをするようにピーチフィズを流し込んだ。余談だが、それは彼女が始めて飲んだカクテルであり、このバーに来ると決まって注文する。今では「いつもの」で通用するようになっている。
「‥‥よく、生んだな」
俺は彼女の目を見ない。と、言うより見てはいけないような気がした。
「お母さんが、絶対産め、って言ったのよ」
BGMが、スローテンポのバラードに変わる。俺の知らない曲だった。荘厳なピアノの旋律が、優しげな曲を彩り、店の空気ごと俺と亜希を包む。
「『勝手につくられて、勝手に殺されるその子の身にもなってみなさい』って。怒られちゃった」
そう言う彼女の顔は、俺が見たことのない少女のそれだった。──いや、こちらが本当の彼女なのだろう。親として、母としての矜持によって押し殺されていた弱冠20歳の上原亜希。
「祐太──あの子が生まれて、あたしなりにがんばってきた。無理矢理事務員にねじ込んでもらったりもして。でも、正直言ってツラかった。シングルマザーだって、言うのが怖かった。‥‥特に、好きな人には」
彼女は、俺の顔を覗き込んだ。あの、まっすぐな瞳で。