居候-12
(11)
その夜、村瀬は余裕のある気分を味わっていた。
(石渡に合わせなくていいんだ……)
相手がどう思おうが構わない。そんなことがこれほど気持ちを軽くするとは……。
行きがかり上、あまり酒を口にできなかったが、実際、飲みたくもなかった。いきおい、石渡は一人で飲むことになった。そしてひどく酔った。
「時々は遊びに来いよ」
石渡は頭をぐらりと揺らして言った。
「ああ、そうするよ。お前も来いよ」
「そうだな。そういえば一度も行ったことがなかったな」
石渡は上機嫌に笑って喋りまくった。
酔いがさらにましてくると呂律が乱れ、絡むよう話しかけてきた。
「女というものはな」
目付きも座って声も大きくなる。
「指くわえてちゃだめなんだよ」
笑って聞き流すしかなかった。真面目に相槌を打ってもかみ合わない。
「どうした?女の方は」
顔を突き出してくる。
「相変わらずだよ」
「なんだ。まだ童貞か。だからだめなんだよ、まったくお前は。だからノゾキなんかするんだよ」
石渡は村瀬の顔を舐め回すようにへらへら笑った。
村瀬の神経が熱をもった。しかし笑みを絶やさずに聞いていた。
「そうだ」
テーブルを軽く叩いた石渡は粘ついた言葉を酒臭い息に乗せた。
「あの女、やってみないか?」
「……誰」
「あいつさ、今日の、旅行社の」
村瀬は苦笑しながら、
「俺なんて……だめだよ」
「そんなことはない。話つけてやろうか。お前が好きだって言うんなら伝えてやるよ。でもまあ、俺が手をつけちまったしな。予想通り処女だったよ。それでよければ話してやるよ」
石渡は声を出して笑い出した。嘲るような笑いに聞こえた。
不愉快だった。女に同情するというのでもなく、自分が侮辱された不快感だけでなく、心の深い部分に言い知れぬ感情が起こってきて、思わず馬鹿笑いする石渡を殴りつけたい衝動にかられて体が引き締まった。
「しかし、最近の郵便ってのはあてにならないな」
石渡は突然そんなことを言い出して村瀬はぎくりとした。
「あの女、二度も手紙を出したんだって。それが届いていない……」
石渡は変にゆっくりした言い回しで言った。村瀬は目を伏せていた。
「どうした?」
「別に……」
(俺を見ている……)
視線を感じながら焦げ付くような痛みを覚えた。
「手紙、きてなかったよな?」
「……うん……きてれば取っておくよ」
顔を上げると石渡はにやにや笑っていた。どこか勝ち誇った面持ちだった。村瀬はその顔に鋭い刃のような感情を抱いた。
夜が更けると石渡は自分では立ち上がれないほど酔った。
「おぅ、村瀬。飲まねえのか」
「飲んでるよ」
「お前、いつまでここにいるんだ?ああ?」
「帰るよ、すぐ帰る」
「当たりめえだ。童貞野郎」
目付きも言葉も執拗に絡みついてくる。
「もう寝たほうがいい」
「うるせえ。うんざりなんだよ、お前はよ」
「わかった、わかった」
ふつふつと沸く怒りを堪えて拳を握り締めた。
村瀬が布団を敷いてやると服を着たまま転がり込んだ。そしてしばらく意味の分からないことをぶつぶつと呟いていたが、そのうち鼾をかいて眠ってしまった。
村瀬はその寝顔をかなりの時間見つめていた。半開した口元に食べ物の滓がついていた。寝苦しいのか、時折寝返りを打ち、枕から頭が半分ずり落ちた。
(石渡……)
前後不覚で酔いつぶれて眠る男は踏みつぶされたように不細工に見えた。
俺はこの男に何を求めていたのだろう。……
(寝ろ……ずっと寝てろ……)
村瀬は石渡を見下ろしながら煙草に火をつけた。そして大きく煙を吸い、吐き出した。もう一度繰り返してからそれを吸い殻の山に置いた。
石渡の寝返りは止み、熟睡の状態になっていた。村瀬は静かに立ち上がった。
部屋を出て耳を澄ませた。何も聴こえない。
表に出ると夜気が不気味なほどの透明感で彼を包んだ。冬の星が遠かった。どこもかしこも沈み切っている。何者かがじっと潜んで自分を見つめているような気がした。
すでに電車はない。彼はかなりの道のりを歩いて帰った。足音が冷たく響いた。
明け方近くにアパートに着き、そのまま昼過ぎまで眠った。石渡の死を知ったのは夕方である。テレビは火災を報道していた。アパートは全焼し、たった一つの焼死体が石渡だった。煙草の不始末が原因ではないかと消防の見解を伝えていた。短いニュースだった。その年は例年にもまして火災の多い年だった。