第二十二話 潰走-2
「左から敵襲!」
杉野の叫ぶ声が耳に響いて北沢は思わず身を低くした。
「う……!」
隣の大谷は身を屈めるのが、半瞬遅かった。銃弾が彼の首元を通り抜けて、大谷は鮮血をまき散らして倒れた。
「しっかりしろ!」
北沢は大谷の身体を揺するが、駄目だった。彼は即死していた。
「後ろからも来ます!」
さらに杉野から報告が入る。左方向からの銃撃と、後ろからの追撃。このままでは敵にとって理想的な十字砲火が完成し、その銃火に晒されること必至だ。
「前進だ! 急げ!」
北沢は大声で叫ぶと、身を低くしたまま走り出した。部下たちも後ろや左方に警戒しながら付いてくる。しかし、北沢の前進の判断は間違っていた。もっとも、この状況下に正解などなかったが……。
なんと、前方からも多数の銃弾に急襲されたのである。間一髪、北沢は付近の岩陰に飛び込んで銃弾をかわしたものの、すぐ後ろに付いていた三名の部下は反応しきれず、相次いで銃弾に倒された。
「なんてこったい」
北沢は歯ぎしりした。敵はすでに迂回していて、こちらを包囲しているではないか! このままでは……。
「軽機は生きてるか?」
「はい!」
「はい!」
北沢の叫びに、軽機関銃を守るように抱えた横井一等兵と上等兵の二人が同時に返事をした。軽機関銃が生きていれば十分だ、と北沢は包囲陣を突破できると踏んだ。
「軽機はその場で前の敵を抑えろ! 他は斬り込むぞぉ!」
北沢はサイパン戦での、二度目の突撃を決めた。これ以外の方法を考えている余裕は無かった。
「突撃ーっ!」
小銃に素早く銃剣を取り付けると、北沢は我先にと先陣を切って飛び出した。
「わぁーっ!」
「おおお!」
部下たちもそれぞれ雄叫びを上げて走り出す。軽機関銃を撃っていた二人も突撃を始め、杉野も銃剣を装着して雄叫びを上げて後に続く。
「えいやぁ!」
北沢は立ちはだかる米兵の一人を、柔道技の背負い投げを使って投げ飛ばした。投げられた米兵は頭から地面に叩きつけられ、軽く唸って失神した。
横井と共に軽機関銃を持つ上等兵が、頭を鉄兜ごと撃ち抜かれて崩れ落ちた。いきなり支えを失って倒れ込みそうになる横井を、後から来た杉野が寸手で受け止めた。杉野はそのまま、横井の背中を押して無理やり走らせた。
「こけるな! 走れ!」
杉野は軽機関銃の後部を持ち、横井と一緒には駆け抜ける。足元には銃弾がいくつも土を舞い上げて突き刺さる。
「抜けたぞぉ!」
北沢は、突破に成功した報告を声を張り上げて部下に伝えたが、その叫びに応えることができた者は、あまりにも少なすぎた。後退開始時に十三名いた部下、今は杉野、笹川、河田、横井の四人だけになっていた。さらに、北沢は衝撃を受ける。
「軍曹殿、腹が!」
笹川が悲鳴をあげて北沢の腹部を指差した。北沢は自らの腹をさする。生暖かい感触が走って、思わず触れた手を見た。手は真っ赤に染まっていた。
「あぇ……?」
間抜けな声が出たかと思うと、ガクンと両膝の力が抜け、その場に倒れそうになる。寸前に河田が肩を支えて、それを防ぐ。どうやら気づかない間に銃撃を受けてしまったらしい。
「軍曹殿!」
「かすり傷だ。気にするな」
北沢は心配する河田の手を払いのけ、一人で立とうとしたが叶わなかった。両足に思う様に力が入らず、持っていた小銃を落とし、体勢が崩れてまた倒れそうになった。今度は笹川と河田の二人で北沢の肩を支える。二人は北沢の腕に触れて、その体温の低いことに驚いた。
「すまんな。前進してくれ」
北沢は紫の唇から声を絞り出して指示を伝えた。北沢の小銃は誰も持てないので、仕方なくその場に置いていくことにした。横一列になった三人を先頭に、二番手は機関銃を一人で持つ横井、その後ろは変わらず杉野が後方を警戒しながら続く。
やがて、大きな砲弾痕にぶち当たった。周りの木々はなぎ倒され、見慣れたタコツボ陣地の様になっている。風に流された砲弾の一発が着弾したようだ。北沢は覚悟を決めた。
「もういい。ここに置いていけ」
「何を言い出すんですか?」
河田の声を無視して、北沢は横井に問うた。
「軽機の残弾はどれくらいだ?」
横井は少し戸惑ったが、取り直して残弾を報告した。残弾は、機関銃内に収まっている十数発と弾倉一個分の計四十数発だけだった。それでも北沢は十分だと言って、横井から機関銃を奪うようにして取った。
「早く行け。追撃が来るぞ」
機関銃を杖代わりにして、北沢は命令した。その顔は血の気が引き、肌は死人の様な青い色をしている。
「杉野、あとは頼むぞ。それと、サイパン土産だ」
そう言うと、北沢は震える手で腰の軍刀を抜き、杉野に手渡した。河田には背嚢、笹川には米兵から奪った水筒、横井には小銃の弾薬入れをそれぞれ身体から外させて持たせた。
「軍曹殿、お世話になりました」
杉野は涙を呑んで北沢にビシッと敬礼した。北沢も引きつった笑顔を作り、敬礼を返す。三人も杉野に続いて北沢に敬礼する。
「さぁ、行け!」
北沢の声に背中を押されるように、杉野らはそれぞれ再度軽く敬礼してから歩いて行った。