(その3)-6
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エピローグ
一か月後、私は、行きつけのカフェでいつものようにパソコンで小説を書いている舞子さんに
久しぶりに出会った。いつもの席でパソコンに向かって指を動かしている。私が前に席に座っ
たことさえ気がつかない様子だった。SM小説書いているんですか。私は舞子さんのパソコン
の画面をのぞき込んだとき、舞子さんがやっと顔をあげた。
あら、ノリコさんじゃないの。お久しぶりね。書くのに夢中になって気がつかなかったわ。と
言った舞子さんのキーボードをたたく指が止まる。
書いている小説の題名を聞いたら「ひこうき雲」だった。どんな小説なのか聞いたが、舞子さ
んはにっこり笑みを返すだけだった。そして穏やかな笑みを浮かべた舞子さんは、ゆっくりと
コーヒーカップを手にした。舞子さんが私のバイト先のコンビニを訪れたことに私は触れなか
った。同じような心の傷をもっていることで、私は舞子さんに不思議な親近感をふと感じた。
しばらく見ないあいだに、ノリコさんってずいぶん変わったわね、びっくりしたわ。ええっ、
そうですか。なにかいいことがあったのかしら。もしかしたら素敵な恋かしらと、舞子さんは
柔らかな笑みを絶やすことなく手にした煙草に火をつける。
ところで舞子さんに初めて言いますが、私、結婚することになったんです。ちょっと恥ずかし
いですが、彼って、実は高校のときの初恋の人で、二歳年下の男性なんです。そうなんです…
初恋の男性と結婚できるなんて、考えたこともなかったですね。初恋ってずっと胸の奥深くに
大切に残しておくだけのものなんて考えていたので、自分でも信じられないんです。
でも彼って目が見えないんです。私はそれでもいいと思っています。見えない糸ってあるじゃ
ないですか。目に見えないものだから、ずっと大切にできるような気がするんです。
真新しいマンションの窓をあけたとき、不意に舞ってきた秋空の爽やかな風が私の頬を撫でて
いく。カオルくんとの結婚式は、十二月のクリスマスに伊豆の小さな教会でふたりだけであげ
ることにしている。
ひと足早く、私たちは新居となる都心から少し離れた小さなマンションを借りた。樹木で囲ま
れた小さな公園に接したこの静かな場所を私たちはとても気に入っていた。私はカオルくんの
手を引いて、見晴らしのいいバルコニーに出てみる。
澄みきった秋空の果てから、風が戯れるように吹いてくる。カオルくんはこの空を見ることは
できないけど、ふたりで感じる光と風は同じなのだ。
不意に空で何か遠い音が響いたような気がした。ふたりの同じ視線の先には、茜色の空に細い
筋を描いたひこうき雲が瑞々しく空に刻まれていた。
私が初めて恋した人はカオルくんに間違いない。いや、きっとそうなのだ…。ほんとうに愛す
る意味を見出すことができた人がカオルくん…それが私の初恋なのだ。そう思ったとき、黄昏
のオレンジ色の光を含んだ瞼の裏が微かに潤んでくる。それは今にも涙となって頬に溢れてき
そうだった。
そして、私たちは、その瑞々しいひこうき雲のはるか遠い空から放たれる陽光を胸いっぱいに
吸い込んだのだった。
…白い坂道が空まで続いていた
ゆらゆらかげろうがあの子をつつむ
誰も気づかずただひとりあの子は昇っていく…
空に憧れて 空をかけていく
あの子の命はひこうき雲 …
( 荒井由実 作詞・作曲 )