第二話 船団への洗礼-1
夜が明ける。狭い船室内での生活も九日目となるとさすがに慣れようものだ。当初は狭いだの、息苦しいだのと、ぼやいていた兵士も少なくなり、ごく自然のように狭い船内での生活をしていた。だがぼやく者の数が少なくなったとはいえ、一人もいなくなったわけではない。不平を言っても状況が変わるわけではないが、不平を言わないと、いてもたってもいられないのである。
「あーあー! いつになったらこの狭苦しい船から抜け出せるんだ? 気が狂いそうだ」
ここにも今は少数派になった、不平を言う兵士がいた。彼の名前は北沢友男。歩兵第一一八連隊所属の分隊長を務める軍曹だ。
「まだ慣れてないんですか? いい加減慣れてくださいよ」
ぼやく北沢を小馬鹿にするような口調で非難を浴びせたのが、同じ連隊に所属している、大井上等兵だ。北沢と大井は同じ機関銃分隊員で、共に中国戦線を戦い抜いてきた。
「それと、いつ髭を剃るんですか? 似合ってないですよ」
北沢はたいそう偉そうな髭を生やしている。夏目漱石に似ている。と言えば大抵の人は頷くだろう。
「うるさいぞ。こんな偉そうな髭は俺ぐらいしか生やしてないからな。死んだときに判別しやすいだろうと思って、親切心でやってんだよ」
愛銃の三八式歩兵銃を磨きながら偉そうな髭兵長は自慢げに語った。
「縁起でもないこと言わんでくださいよ。大体、大砲が当たって死んだら、腕ぐらいしか残りませんから無意味ですよ」
一方の銃剣を磨いている上等兵はそっけなく応じた。
北沢の機関銃分隊は中国戦線にて、歩兵部隊をよく支援し、歩兵達からは『脇役軽機分隊』と親しみをもって言われ、頼りにされた。昭和十九年四月に、大井と共に二人揃って第一一八連隊に転属してからも変わらず機関銃分隊になったが、内地勤務になってしまったため、実戦の機会はなくなってしまった。それでも訓練を怠らず、自らの分隊を鍛え上げてきた。
「まぁ、大砲で死のうが、小銃で死のうが、銃剣で死のうが関係ないですが、俺は海で死ぬのだけはごめんですね」
大井が銃剣を電灯に透かして、刃こぼれがないか探しながらつぶやいた。
陸軍の兵士が輸送途中で死ぬほど不名誉なことはない、と大井は思う。陸兵は陸上で戦ってこその陸兵だ。それが陸に上がる前に小銃も撃たずに死ぬのでは存在意義そのものがないではないかと、考えていた。
「まったくだな。陸兵が海の藻屑じゃ、笑えねぇよ」
北沢が三八式歩銃の遊底をカチャカチャと動かしながら同意する。
「よーし。次は軽機の整備だな」
と言うと北沢は、彼らの商売道具とでもいうべき機関銃の整備に取り掛かる。
彼の商売道具こと、九六式軽機関銃は三八式歩銃と同じ六、五ミリ弾を使用し、毎分五百発もの連射速度を誇る。また精度もよく、北沢はよく、「狙って」敵の機関銃手を狙撃して倒していた。銃身に交換用の取手と、銃剣の着剣装置が付いているのは、開発者の小さな親切だろう。もっとも、今まで銃剣の方は一度も使用機会はなかったが。
「サイパンはいいところですかね」
北沢に問いながら大井も軽機の整備を手伝う。
「どこ見てもサトウキビしかねぇぞ。きっと」
サイパン島の主な産業は製糖業で、高品質のサイパン産砂糖は本土でも有名だった。
「にしても、やっと今日と明日で船旅も終わりですね」
大井が両手を上に組んで伸びをしながら言った。つい先ほど船内放送で、明日には到着という連絡があったのだ。それを聞いた北沢は小躍りして喜んでいた。それほどに辛かったのだろうか。
「けッ。もう船はたくさんだぜ。メリケンの潜水艦の奴らも今日と明日で着くんだから、狙ってくれるなよ」
北沢は両手を合わせて拝む。拝んだところで攻撃されないとは限らないのだが、自らの生死がかかっているのだ。信じてもいない神様に願い事をしても、信心が足りんからといって罰は当たらんだろう。彼は心の中で祈った。