第一話 輸送船団-1
「くうぅぅ……」
六月五日の夕方。サイパンへの増員を運ぶ輸送船「はあぶる丸」の甲板にて、杉野は思いっきり伸びをした。夕方とは言っても太陽はまだ明るい。そのことと、気温の高さが南方であることを感じさせる。彼のほかにも何人か肩を回したり、首をひねったりしている兵士がいる。陸軍の軍人である彼らにとっては、狭苦しい艦内生活は少々苦しかった。徴兵ではなく職業として軍人であることを選んだ杉野であったが、軍人とて人間である。苦手なことは苦手であり、しかもそれが船旅ときた。海兵なら直しようもあったが陸兵では機会すらない。それが今は船に揺られて常夏の島へ輸送されている途中である。
「伍長殿、大丈夫でありますか?」
と杉野の階級である伍長と呼ぶ声が聞こえる。殿とつけるあたり彼より階級が下の者だろう。陸軍では古くからのしきたりで上の階級の者を呼ぶときは、殿と敬称を階級の後ろに付けて呼ばなければならない。新兵だった頃の杉野は、当時教官であった軍曹に殿を付け忘れて呼んでしまい、ぶっ飛ばされた苦い記憶がある。あれ以降、敬称を付け忘れたことはない。
「ん、大丈夫だぞ」
と杉野は振り返ってその声の主に無事を知らせる。声の主は彼の分隊に所属する河田一等兵だった。
「そうでありますか。自分は実は泳げないので、少々不安です」
と困り顔で意見を述べる。そしてさらに言葉を続ける。
「つい、昨日も味方の船が沈んだばかりですし、無事にサイパンへ行けるのでしょうか?」
彼が不安がるのも無理はない。先日の六月四日に、同じ船団の輸送船勝川丸が敵の潜水艦の標的となって沈んでいる。乗船していた多くの将兵や貴重な武器弾薬、食料が海の底に消えた。制空権、制海権ともにすでに敵のものとなっている。いつまた襲ってくるかわからないのだ。
「大丈夫だ。護衛艦が守ってくれるさ」
不安がる河田に杉野はそう言って励ます。もちろんこれは詭弁だ。輸送船団七隻に対して護衛艦はわずかに四隻。輸送船よりも護衛の軍艦の方が少ないのだ。しかも駆逐艦や巡洋艦ではなく、貧弱な武装しかない駆潜艇が三隻と水雷艇一隻の構成だ。緒戦こそ護衛には駆逐艦もついてくれて頼もしい限りであったが、続く苦しい戦いで次々と沈められてしまっていた。海軍も自らの戦力を維持するだけに必死で護衛に割く戦力はほとんどないのだろう。
「おっ!いたいた。杉野伍長殿!河田!」
二人を呼ぶ元気な声が響く。呼ぶ声の先には片手をあげた笹川一等兵の姿がある。
「少し早いけどもうすぐ夕飯だそうですよ。伍長殿、またマレーの話きかせてくださいよ」
「あはは。わかった。わかった」
笹川の頼みに笑いながら杉野が答える。太平洋戦争緒戦、当時新兵であった杉野は第五師団に所属しており、マレー作戦に歩兵の一人として初陣を飾った。その後シンガポールを攻めている最中にイギリス軍の狙撃兵に右腕を射抜かれて重傷を負い、本土での療養を余儀なくされた。そして療養後、この歩兵第一一八連隊第二大隊の一分隊長として前線に復帰したのである。
この連隊は徴兵された新兵がほとんどで、実戦参加経験のある者は少ない。実戦経験のある者は新兵にせがまれてはその話をしてやることが多々あった。杉野もその一人でよく自らの分隊の新兵に体験談を聞かせてやっている。
「もう飯か。海軍の飯はうまいからよだれがでるな」
「はい」
「ええ」
杉野の言葉にすかさず二人の新兵は同意した。海軍では長い船旅による緊張をほぐすため、各軍艦の料理科の兵は腕によりをかけ大変おいしい料理を乗組員に提供する。輸送船とてその例外ではなく、出された料理はどれも舌鼓をうつに十分な味だった。三人が揃ってそのおいしい料理にありつこうと食堂へ向かおうとしたとき、突然大きな衝撃が、はあぶる丸を襲った。