第一話 輸送船団-4
自らの戦歴を一通り語り終わった杉野は、話を聞いていた部下にそろそろ寝るように、と諭してから自らは甲板にあがった。
甲板のベンチに腰を掛けて一息つくと、おもむろに胸ポケットから一枚の写真を取り出した。写真には笑顔の自分。その隣には同じく笑顔の一人の女性が、並んで写っていた。
「智子。俺は今、まだ船の上だ。サイパンは遠いよ」
ぼそぼそと写真に向かって独り言をつぶやく。出征以来ずっと、夜中に一人でこうして写真に喋りかけるようになっていた。
「今日は、輸送船が二隻も沈められてしまったよ。無事にたどり着けるだろうか……俺はまたお前に、生きて会いたい」
つい、弱音が出る。一人で写真に語り掛けるその姿は、普段は陽気な彼とは一八〇度違っていた。
杉野の脳裏に妻との馴れ合いの頃から二度目の出征までの姿が浮かぶ。
杉野と写真の女性……彼の妻である智子とはマレーへの出征直前に結婚した。出会いは、なんら代わり映えのない親同士の決めたお見合いの席だったが、二人とも気がよく合った。休暇の日には二人でデートに行っては少ない給料で服を買ってあげたり、レストランで食事をしたりした。やがて出征が決まり、双方の両親に急かされて、婚姻届けを出し、夫婦となった。
出発の日、港で智子からおにぎり二つと、写真を渡された。
「お元気で、体に気を付けてな」
当たり前のことを言う。
「あなたの帰りを待っています。どうかお国のために精一杯、戦ってきてください」
智子は涙を目にいっぱい溜めて涙声でそう言った。
「元気で帰ってくるさ。指切りしよう」
「はい」
涙声で智子が頷き、指切りをする。智子の目からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちている。それを杉野は軽く指で拭ってやって、キスをした。
「絶対帰ってくるよ」
目いっぱいやさしい口調で言ってから船に乗った。
船の機関が回り、動き出す。甲板からは出征する兵士たちが手を振り、思い思いの別れの言葉を叫ぶ。港からは見送りの人々が手や日の丸の旗を振り、こちらも思い思いの言葉を叫ぶ。船は汽笛を勢いよく鳴らし、戦地へと旅立っていった。そのうちの幾人かは決して帰ってこないのだ……
右腕を吊って、いかにも戦地帰りの雰囲気を出して杉野は一軒の家の扉をコンコンと叩いた。中から
「はい。今開けます」
懐かしい声が聞こえる。
「無事、帰ってきたよ。残念ながら無傷とはいかなかったけれど」
扉を開けた女性は一瞬、表情が固まった後、幾秒かして固まった表情を泣き顔へと切り替えた。
「お帰りなさい。お帰りなさい。お帰りなさい」
鳴き声で何度も何度も戻った者に対する挨拶の言葉を繰り返す。杉野は彼女を自由な左手で抱きしめた。そして待ち望んでいるであろう一言を、出発のときと同じ、目いっぱいやさしい口調で言った。
「ただいま帰りました」
杉野は本土へ帰ってからは内地勤務となり、新兵の教官となった。さすがに戦時中なので、営外居住の許可は出なかったが、マレー戦での活躍と、何より上官の計らいで、ひそかに少しだけ他の同階級の兵より半日休暇を多くしてもらっていた。杉野は休暇のたびに智子の実家へ赴き、食事や、談笑を楽しんでは兵営に門限ぎりぎりに帰っていた。一度だけ門限を二分、遅刻したことがあったが、その時の巡察当番であった軍曹に見逃してもらって事なきを得た。
やがて戦局が悪化し、杉野にも召集がかかった。第四十三師団第一一八連隊へと転属命令が下り、再び戦場へと行かねばならなくなった。
「また、戦場へ復帰せよ。とのことだ。また行かなくてはならない」
今度はサイパン行きだと聞いていた。米軍の反抗に備えて設定された絶対国防圏の最前線かつ重要拠点の一つだ。この転属を言い渡された時点で、杉野は生きて帰れる可能性が、ほぼ無いことに感づいていた。すでにギルバート、マーシャル諸島の島々に米軍が上陸し、日本軍守備隊は激戦の末に壊滅したことを知っていたからだ。次はサイパン島のあるマリアナ諸島かパラオ諸島、あるいはその両諸島に上陸するであろうことはいち伍長にも自明の理であった。
「今度はサイパンへ転属だ。またしばらく会えなくなるね」
さすがに二度と会えないかもしれないとは言えなかった。
「そんな……サイパンだなんて……」
智子は息をのんだ。つい最近、目と鼻の先にあるギルバート諸島の島々が玉砕したばかりだ。帰ってこれる兵士は何人になるか……行ってほしくなかった。結婚しているとはいえ彼とはまだ同居すらしたことがない。もっと一緒に居たい。見合い結婚でありながらも自分を心から愛してくれた彼を智子も心から愛していた。それを失いたくなかった。
「行ってらっしゃいませ。また、お帰りをここで待っております」
それは思っていることとは全く逆の言葉だった。彼は一瞬だけ驚いた顔を見せたが、すぐに顔をキッと引き締め、両足をピタッと揃えて敬礼をし、一言こう言った。
「杉野浩伍長!只今より戦地へ復帰してまいります」
ふと杉野は上を見上げた。天の川銀河の星々がまばゆいほどの光を放っていた。人は死ぬと星になるという。自分もいつか、あの星になってしまうのだろうか。
洋上の夜は少し、肌寒かった。