プロローグ-1
一九四一年十二月、日本はハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まった。
開戦と同時に南方へ侵攻した日本軍はマレー沖海戦でイギリス東洋艦隊を破り、難攻不落の要塞と言われていたシンガポールの攻略に成功する。
フィリピン、蘭印など次々と占領し、スラバヤ沖海戦で連合国軍の艦隊を壊滅させた。
破竹の快進撃を続けた日本軍はついにオーストラリアののど元、ニューギニア島ポートモレスビーにまで迫った。だが、勝利は長くは続かなかった……
一九四二年五月、日本軍は珊瑚海海戦にて初の試練を迎える。この戦いにおいて日米両軍は互いの姿を目視しえない状況下で死闘を繰り広げた。史上初の空母対空母の戦いだ。海戦では日本軍が勝利したが、空母一隻を失い最大の目標であるポートモレスビーの攻略を断念せざるを得なくなった。
ここにきて初めて米軍は膨大な犠牲を払いながらも日本軍の攻勢を食い止めることに成功した。そして……
一九四二年六月、運命のミッドウェイ海戦。主力である空母四隻とその他約七十隻もの艦艇を動員した大艦隊を以ってミッドウェイ島を攻略せんとした日本軍は、これを迎撃する空母三隻を基幹とした米艦隊と激突。
結果、日本軍は主力空母四隻とその艦載機を喪失、三千名以上の戦死者を出して敗退した。そして太平洋戦争における主導権を永遠に失った。
一九四二年八月、米軍はソロモン諸島ガダルカナル島に日本軍が設営した飛行場と、同島を奪取すべく攻略作戦を実施。日本軍はわずかな陸戦隊と設営部隊しか在島しておらず、飛行場は米軍に奪われてしまった。日本軍は再奪取のため増援部隊を送り込み、対する米軍もそれに合わせて次々と増援を送り込んだ。
開戦前は名前すら知れ渡っていなかった常夏の島がいつしか太平洋戦争有数の激戦地となっていた。付近の海域では艦船が砲弾を際限なく撃ちあい、空では航空機が機体の性能、搭乗員の手腕をかけて乱舞した。地上では歩兵が前人未到の熱帯林で自らの限界を超えた力を発揮して、死闘を繰り広げた。
しかし戦況はやがて損害に対する回復力に勝る米軍優位に立ち、ついに日本軍は二万二千名もの死者を残して翌年二月に撤退した。
一九四三年四月,前線視察のためブーゲンビル島ブイン基地へ向かっていた山本五十六連合艦隊司令長官が米軍戦闘機の待ち伏せにあい戦死。五月にはアリューシャン列島のアッツ島、キスカ島を失った。キスカ島では撤退作戦が成功したものの、アッツ島では二千六百名の日本兵が十八日間の激戦の末に玉砕。開戦以来初の島嶼部における玉砕戦となった。六月にはニューギニア戦線が崩壊、食料が尽き餓死者が続出、それに追い打ちをかける連合国軍。ニューギニアはこの世の地獄と化した。
十一月、ついに米軍は本格的な攻勢に出る。中部太平洋を日本本土めがけて西進するニミッツ大将率いる「ニミッツ軍」と南西太平洋をフィリピンめがけて西進北上するマッカーサー大将率いる「マッカーサー軍」この二軸の攻勢を繰り出した。
まずニミッツ軍がギルバート諸島のマキン環礁、タラワ環礁の攻略にかかる。両環礁の日本軍は劣勢ながらも激しく抵抗、特にタラワ環礁では三千名を超える米兵が死傷、タラワは出血の代名詞とされた。
一九四四年三月、大陸でも意義留守軍を主力とする連合軍の反撃が始まった。日本軍は、インドに駐留する英印軍の拠点であるインパールの攻略を目指すインパール作戦を敢行。この作戦には九万人もの将兵が参加したが補給を軽視した無謀な作戦によって四万人以上の将兵を失う大損害の末に中止された。
五月、マッカーサー軍がニューギニア北西部、ビアク島に上陸。多大な出血を強いられながらも米軍は同島を占領。一万五千名からなる日本軍守備隊は玉砕した。
制空権、制海権ともに米軍をはじめとする連合軍に掌握され、日本軍にそれを再奪取する力はなかった。太平洋戦域のほぼすべての戦場で日本軍は苦境に立たされ、消耗を重ねていった。もはや連合軍の攻勢を止めるだけの力は日本軍には存在しなかった……
中部太平洋を西進するニミッツ軍はマーシャル諸島を占領後、次の攻略目標をマリアナ諸島に決定。同諸島を占領後、大規模な飛行場を建設し、そこから爆撃機を飛ばして日本本土を爆撃しようとしたのである。対する日本軍もマリアナ諸島の死守を決定。大規模な戦力増強をし、徹底抗戦の構えを見せる。
太平洋戦争の帰趨を決する戦いが始まろうとしていた……