逃亡-36
(見られている!)
冷や汗が出、顔から火が出るようだった。しかし、どうすることもできない。瑞紀は恥ずかしそうに俯いたまま階段を登り、船に乗り込んだ。
「こっち来るよ。」
甲板から狭い階段を下りていくと、そこは薄暗い船倉だった。壁際に大型の動物を入れるような鉄の檻が置いてある。
巨漢は瑞紀の滑らかな肩を押して、その檻の方へ引き立てて行く。
血の気の失せた硬い表情でここまで引き立てられて来た瑞紀だったが、その檻に自分が入れられるのだと悟った途端、足を止め、王を振り返った。
「私を、ここに入れるつもりなの?」
本当に、もはや自分は人間として扱われないようだ。瑞紀の唇は屈辱と恐怖のため、わなわなと慄えている。
「さ、檻に入るんだ。」
「い、いやぁ…」
とうとう堪えきれなくなり、つっぷして号泣する瑞紀をのっぽと巨漢が引き立て、檻の前に連れていく。
巨漢は瑞紀の形のいい美しい双臀を撫でさすりながら手錠を外し、腰のあたりを足で押すようにして彼女を檻の中へ押し込んでしまった。ガチャリと南京錠をしめる音が響く。
檻の中の瑞紀は小さく身をかがめるように座り込み、両手で乳房を抱きながら深く首を落としてすすり泣いた。
「これは、直々にどうも。」
警備責任者の蒲生は、黒いクラウンから降りてきた男に最敬礼した。
車から降りてきた初老の男は、痩せた身体に地味なグレイのダークスーツを着、サングラスとマスクで顔が見えないようにしている。
「仕方ないさ。『お前が、自分の目でケリが着いたことを確認して来い』との先生のご命令だからな。」
男は腰のホルダーから拳銃を取りだし、言葉を継いだ。
「ところで、誰も逃がしていないだろうな。」
「はい、おっしゃる通りに見張っていましたので、女を乗せた緋村のバイクが入って来たのを最後に、このエリアに入ってきた者も、出た者もおりません。」
「それじゃあ、緋村も中にいるんだな。」
「はい。ここに来てからずっと、管理事務所で寝泊まりさせています。」
「では、始末をつけるか。」
男は拳銃を手にして歩き出した。蒲生達、数人の警備員がクラウンの中から銃を取り出し、男の後を追いかけた。
*
衆議院議員会館から出てきた森橋甚三郎をわっと記者が取り囲んだ。
「いよいよ、首相の椅子が近づいてきましたね。」
「勝算は?」
「政治団体特別規制法に、野党が噛みついていますけれど…」
マスコミ嫌いで有名な森橋は、「ノーコメント」とだけ言って、車に乗り込んだ。
テレビ中継の一隊の横に野上が立っていた。彼は、森橋を乗せた車が行ってしまうと、機材を片づけている一人のカメラマンのところへ近寄った。
「やあ、三原さんだね。ちょっと、小一時間ほどいいかな?」
それは、文京区の駐車場からサービスエリアまで、緋村の車に同乗させられたATVのカメラマンだった。
野上は三原と一緒に近くの喫茶店に入り、再度話を聞いてみた。しかし、特に目新しい情報は得られず、がっかりした様子でため息をついた。彼が頭の中で組み立てているジグソーパズルには、もう少しピースが必要なのだ。
「わるいけど、タバコ、持ってないかな?きらしちまったんだ。」
「いいっすよ。」
三原は汚れたジャンパーのポケットをゴソゴソと探る。
「おかしいな、ここに入れといたんだけどな…」
なんでもかんでもポケットに突っ込んでおくタイプらしい、とうとう三原は、ボールペンやティッシュ、紙切れなどポケットに突っ込んでいる物をテーブルの上に並べ始めた。
「おや、携帯電話、2台持ってるのかい?」
テーブルの上に2台の携帯電話が並んでいた。
「えっ、俺は一つしか持ってないっすけどね。これ、誰のかな?」
三原は少し考え込んだあとで、ポンと手を打った。
「そうだ。刑事さん、これ、あの事件の時の携帯電話ですよ。」
三原が興奮した口調で言う。
「緋村の車に乗せられた時か?」
「そうですよ。婦警さんが持ってて、犯人に取られたやつだ。」
「本当か!」
野上の口調も興奮してくる。
「そうか、このジャンパーは中継の時しか着ないから、警察に呼ばれた時は着てなかったんだ。でも、どうして俺のポケットに入ってたんだろう。」
「最後に電話を持ってたのは誰だ?」
「俺が覚えている限りじゃあ、あの最高に美人の婦警さんですよ。」
それを聞いた野上は、一呼吸置いて答えた。
「ああ、本当に最高だよ。あの娘は。」
そして、口に出さずに言葉を続けた。
(あれほどの苦境で、きちんと手がかりを残したんだから…)