明星ロマン-1
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表示を『賃走』から『空車』に切り替えると、室井暁(むろいあきら)はふたたびタクシーを走らせた。
たった今、酔いつぶれた男性客を自宅まで送ってきたばかりである。
もちろん運賃のやり取りができるような状態ではなかった。
着きましたよ、と室井が声をかけた時など、その男性客はごにょごにょとわけのわからないことを言い、しまいには鼾(いびき)をかいて眠ってしまったのだ。
仕方がないのでそこの家人に事情を話し、難儀しながらも何とか彼を引き渡すことができたのだった。
おかげで余計な汗をかいてしまった。シャツが体中にべっとりとまとわりついており、車内にはアルコールの臭いがこもっている。
まったく勘弁して欲しいね──換気をするために室井はタクシーの窓を開けた。ぬるっとした空気が運転席に忍び込んでくる。
夜風には排気ガスの臭気が含まれていたが、八月にしては涼しいほうに感じた。
ふと時計を気にしてみれば、すでに野球のナイター中継も終わっている時刻だった。
きんきんに冷えたビールと枝豆をやりつつペナントレースの行方を見守る、というのがもっとも理想的なスタイルではあるが、そんなささやかな夢でさえ叶えにくい世の中になった。
彼は、いわゆるリストラの波に飲み込まれたクチだった。
自分は結局のところ会社の歯車でしかなかったのだ。いくらでも代わりの利く、ちっぽけな部品に過ぎなかったのだろう。
そんな皮肉を腹におさめながら、毎日こうしてハンドルを握っているのである。
家庭を思えば悩みの種が尽きることはない。極度のストレスから円形脱毛症にもなった。
やれやれだ──室井は自分の後頭部を撫で、ようやく生え揃ってきた髪の感触に苦々しく笑った。
おもむろに車載の無線機を手に取り、営業所の人間と音声を交わす。
ひとまず駅前のロータリーで待機していてくれ、という指示が返ってきた。
室井は短く応答し、のろのろとハンドルを操作する。気怠さで食欲はないが、喉は渇いていた。
ふと、ヘッドライトの先に自動販売機の明かりが見える。
ちょうどよかった──ハザードランプを焚いてタクシーを路肩に寄せると、シートベルトをゆるめて外の様子をうかがった。
車の交通量も人通りもほとんどなく、遠くに民家の明かりが一つ二つ見える程度である。
自動販売機の正面に立ち、尻のポケットから財布を出した。とりあえず冷たいコーヒーが飲みたい。
すっかり寂しくなった額に汗を感じながら小銭を出そうとした時、自動販売機に群がる羽虫が顔面に集(たか)ってきた。その拍子に手がすべって財布が落ちた。
なんてこった──疫病神に好かれているのだろう、とつくづく自虐的になる。
カードやレシートなどが足元に散乱して不愉快きわまりない。
缶コーヒーの一本もまともに買えないのか──頭の裏で愚痴をこぼしながら室井は両膝を折った。
するとすぐそばに人の立つ気配があった。虚を突かれ、口から心臓が飛び出るかと思った。
それに、金縛りに遭ったように全身が動かない。
かろうじて目だけは動くが、視線をそちらに向けたくなかった。得体の知れない存在がそこにいるような気がしたからだ。
あるいはタクシーを狙った強盗かもしれない。いずれにしても関わりたくない相手である。